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「悪いけど、自分でパンを焼いて食べてくれない?私、ちょっと…」

 妻の亜佐美の言葉を聞いた瞬間、檜山の口が勝手に動いた。

「朝飯ぐらい、熱い味噌汁とご飯が食いたいな」

「ごめん」

 亜佐美は硬い声で応じた。妻のむっとした顔つきを見て、檜山は後悔した。非難するつもりはなかったのに、刺々しい言い方になってしまった。別に亜佐美のせいではない。担当しているプロジェクトが迷走しているせいで、昨夜もカツサンドをかじりながら資料と格闘する羽目になったのだ。

 終電に乗ってマンションに帰り着くと、亜佐美は既に床についていた。檜山は彼女を起こさないように、静かにベッドに潜り込んだ。枕に頭をつけた途端に眠り込んだと思ったら、すぐに目覚まし時計が鳴ったような気がする。

「いや、いいよ」

 檜山は怒ってはいないのだと示すため、自分でティーバッグを取り出し、トースターにパンを突っ込んだ。

 カップと皿を持って食卓につくと、亜佐美がウーロン茶を飲みながら言った。

「遅かったんだ、昨日も」

「ああ、ちょっとな」

 やらなければならないことは山ほどあるのに、一向にはかどらない。とりあえず目の前の課題をこなしていくのが精いっぱいだった。機能説明会、課題検討会議、ワークフローツールのデモ。それに最近、顧客側リーダーの久留米主任が進捗の遅れを気にしたのか、思いつきでリカバリープランの提出を要求してきた。画面設計標準も見直さなければならない。上司の仁科次長はしきりに、進捗状況を報告しろと言ってくる。

 表情を消した亜佐美が言う。

「最近ろくに話もできないよね」

「そうだな」

「私だって、いろいろ、聞いてほしいこともあるんだよ?」

 質問のように語尾を上げる亜佐美の言い方が、妙に気に障った。檜山はつい、大きな声を出していた。

「仕方がないじゃないか。俺だって早く帰りたいさ。帰れるもんなら」

「そう?」

 亜佐美は顔を逸らし、栗色のショートボブの髪を振って、つと立ち上がった。

「おいおい、怒ってるのか?」

「別に」

 キッチンから水を流す音が聞こえた。会話を拒絶された感じだ。檜山はやけを起こして紅茶を口に含んだ。何へそを曲げてんだ。あいつだって元SEなんだから、事情は分かっているはずなのに。大体が最近、手抜きが多過ぎる。メシを炊いて味噌汁を作るくらい大した手間じゃ…。

 その時、カレンダーが見えた。さっきまで亜佐美が背にしていた壁のカレンダー。南欧の街並みを描いた水彩画の下に、日付の数字が黒々と並んでいる。その中の一つが赤い丸で囲んである。「16」という数字。

「あ…」

 檜山は思わず声を上げた。四月十六日は今日だ。そして今日は…結婚記念日。二度目の。昨年は新宿のフレンチレストランに行った。まだプロマネになる前のことだったから、時間を作るのは難しくなかった。だが今年は…。

 これでは亜佐美の機嫌が悪くなって当然だ。うわ。こっちにもリカバリープランが必要だぞ。急いで目の前の問題を潰すため、檜山はろくに考えもせずに口にした。

「あ、あの、今日もし早く帰れたら、久しぶりに外食でもしようか」

 水の流れる音が止まった。亜佐美の声はびっくりするほど厳しかった。

「できもしないこと、言わないでよね。どうせ、帰りたくても帰れないんでしょ?」