「えー?」
唇の端を曲げた妻の亜佐美の表情から、檜山は面倒なことになったと思った。
「今日も遅くまで帰れないのー? 真実をお風呂に入れてくれる約束なのに」
「すまん」
檜山は、右手で拝むそぶりをした。
「急に、お客さんとのデータセンター見学の予定が入っちゃって。その後の懇親会も、営業部がセッティングしてるんだ」
昨夜、帰りがけに上司の仁科次長に聞いた話だった。プラチナ工業の情報システム部長が、ようやくデータセンターの見学に来てくれることになったのだという。檜山の会社が提携している埼玉県のデータセンターは、今後のアウトソーシング提案の核となる施設なので、営業担当も仁科次長も張り切っている。そういう事情から、プラチナ工業でいくつかのプロジェクトを担当した檜山に、「何とか都合をつけてくれ」と要請してきたのだった。
「今週はずーっと駄目だったでしょ。まあ、仕事なら仕方ないけどね」
言葉とは裏腹に、亜佐美の表情は全く納得していない。気をつけないと、今後の夫婦の会話で、失点として何度も持ち出されることになるだろう。檜山も、それがわかるくらいの経験を積んでいた。
「本当にごめんな。土日に埋め合わせをするから」
檜山の言葉も、妻の機嫌を直すには至らなかった。
亜佐美は、あてつけのようにさっと真実を抱き上げて、檜山の顔を見せる。
「あたしは別にいいんだけどさ。最近、パパはあんまり真実たんにかまってくれないのよね。真実たんは、自分ではまだ文句言えないからカワイチョでちゅよねー」
抱き上げた娘に代弁させるという、亜佐美得意のパフォーマンスだ。真実はただきょとんとしているだけだが、これをやられると結構こたえる。檜山は、ちょっとむっとしながら、コーヒーを飲み下した。