そのとき、後ろを学生が数人、大声でしゃべりながら通り過ぎた。おやっさんは、彼らが通り過ぎるのを待って話を続けた。

「しかし、開発している本人にそれを考えさせることには無理がある。自分のしていることを否定することになるし、そもそも日々の仕事に追われてそんな時間はない。開発に力を注ぎ、競争力のある商品を作り出すことが、その人の仕事だから、何よりそれをやるべきだ。それが本人の実力アップにもつながるし、会社の競争力に直結するものだ。競争条件が変わっても、開発者の実力が高ければ挽回できるかもしれないし、他の部署へ行っても十分戦力になるだろう」

「デジカメの需要が減っても、デジカメの機能はいろんなところで使われるから、開発者は実力さえあれば、応用が利くということですね」

 私は、スマホのほか、防犯カメラや医療機器の内視鏡などカメラの応用例をいくつか挙げた。

「その通りだ。消費者が選ぶポイントは変わっても、その商品に必要な機能であれば、開発を続ける必要があるし、その商品がなくなっても、他の商品に応用できることもある。商品はあきらめても、技術の価値は残るということだ」

 ここで私は、新規事業開発部に配属されることが決まり、どうしたものか困っているという話を、この人にしてみることにした。会社の事情もよく知らない人に話して意味があるのかと思ったが、何かヒントが得られればいいという軽い気持ちだった。

 私の相談を聞いて、おやっさんはためらうことなく答えてくれた。

「よくある話だな。どこの会社でも新規事業開発部を設置しているが、本来は経営陣の仕事だ。新規事業開発部を設置して、あとは人任せでどうにかなると考えているとしたら、その経営者は失格と言えるな」

「でも経営者だって日々の仕事に追われて、新しい事業を考えている暇がないのではないですか」

 疑問を投げかけてみた。

「会社の存続がかかっていることだぞ。経営者がやらなくて、誰がやるんだよ。まあ、もっとも社長ひとりですべてをやる必要はない。営業担当の役員や技術担当役員も一緒に考えればいい」

 今度配属された新規事業開発部は、社長と専務の直属ではあるものの、どれだけ関わってくれるのか。新規事業についてどこまで考えているのか疑問だった。おやっさんの言う通り、新規事業開発部なんて新しい部署を作って目的を達成したと思っているのではないだろうか。だとしたら我々部員は、押し付けられた格好だ。

 大きなガラスの向こうでは航空機が滑走路から飛び立っていった。

 おやっさんが大きな声を出して言った。

「でも考えようによっては、チャンスだと思わないか。競合企業より先に新しい競争条件を見つけられれば、一気にビジネスが広がることもある」

 そして、ニコッと笑った。

「コマツのコムトラックスは知っているだろう」

 コムトラックスは、ショベルカーなど建機の位置情報や稼働状況をユーザーにレポートするサービスだ。これで保守管理や省エネ運転支援などを行う。建設業界にいて知らない人はいない。

 1998年に、油圧ショベルを盗んでATMを壊し現金を盗む事件が多発した。これを機にコマツは建機にGPSを搭載することにした。それがコムトラックス開発の始まりだ。2001年には標準装備することに決めた。IoTが騒がれ始めたころより10年以上前の話だ。

 中国では、建機の盗難が多く、場合によっては建設会社の社員が勝手に建機を持ち出して、休日にアルバイトしているなんてこともあった。コマツの建機であれば、GPSで場所を特定できるので、そうした不正を防ぐことができる。中国ではコマツの建機が一気に普及したというのも理解できる。

 おやっさんは私の顔を見た。

「それまで建機を開発してきた人からしたら、『何だ、そりゃ?』って感じだったと思わないか」

 建機をどうしたら操縦しやすくなるか。どうしたら頑丈で壊れにくくなるか。そんなことばかり考えていた開発者にしてみたら、急にGPSを設置したり、通信できるようにしたり、まったく畑違いのことをやることになり、面食らうだろうことは容易に想像できる。

「余計なことを言わないでくれって、思ったでしょうね」

 おやっさんが当時のコマツの内部事情を話してくれた。

「開発を始める時には、抵抗勢力も少なからずいたという話だ。でも経営者がトコトン議論することで、最後には納得してくれたらしい」

 社員一人ひとりを相手に説得を続けるコマツの経営者の姿を思い浮かべた。経営者が、いかにタフでないとダメか、話を聞きながら思った。

 おやっさんは、制止するように手を上げて、話を続けた。

「社員を説得するためには、体力も必要だが、考えに考えて、これ以上は考えられないくらいに徹底的に考えることがなにより求められる。そして、自分自身がまず納得しておかなければ、相手を説得できない。このとき言葉がたくみである必要はない」

 だとすれば、そこまで考え抜いて決断したコマツの経営者には感服する。

「下からの提案に対して、『それでいくら儲かる』と聞き返す経営者がいるが、あれは駄目な典型だよ」

 おやっさんに言わせると、かつて高度経済成長期には、日本企業のやることはおよそ決まっていた。欧米を追いかけて、信頼性の高いものを提供することを目指して、日々努力すれば売り上げはあとからついてきた。

 それが最近は、まったく別の分野から参入してきた企業が、それまでとは違うルールを作って事業を奪ってしまう。競争条件が変わるので、常に次の競争条件が何になるのかを考えていないといけない。

 しかもその変化が速すぎて、想定したよりも早く次の競争条件に移ってしまうことが多い。

 おやっさんは、最悪の状況を想定するべきだと言った。そして、そのためには危機感が必要だという。

「危機感を持っていれば、いやでも最悪の場合を想定することになる」

 そして、世界のトップを走っていた日本の携帯電話の話をした。

「1990年代の後半、日本の携帯電話機が世界トップを走っていたのは、間違いない。海外の雑誌が『日本人は親指で会話する』と驚きを持って報道していたのを覚えている。世界では、音声での通話が主流だったが、日本ではすでに携帯電話機でメールを送っていたんだから。今では当たり前過ぎて、あえて言わなくなったが、かつては写真を撮ってメールで送ることを“写メ”なんて言ってたんだ。こんなのも日本から始まった」

 スマホがまだないガラケーの時代だ。もっとも、ガラケーなんて言葉すらなかったころだ。

 さらにおやっさんはカーナビゲーションについても、残念がった。

「カーナビも今ではスマホで十分になった。スマホなら常に地図情報が最新のものにアップデートされるし、目的地までの時間も正確に出してくれる。無料でこんなサービスが提供されてしまったら、カーナビメーカーはお手上げだろう。スマホは既にみんな持っているからなあ」

 おやっさんはシェアリングビジネスで世界に急拡大している、配車ビジネスのウーバーと民泊を斡旋するエアビーアンドビーにも触れた。まったくの異分野から参入してきて、新しいサービスでシェアを拡大している事例だ。

「ウーバーを始めたのはタクシー会社ではない。こうした新しいサービスは当事者ではなかなか始められないものだからな。本来であればタクシー会社が手掛けてもいいが、そうしたら既存のビジネスに悪影響があるかもしれないから、なかなか手を出せない。
 エアビーアンドビーも同じだ。ホテルや旅行会社から始まったわけではない。やはり旅行会社には既存のビジネスがあるから、なかなか新しいことに踏み出しづらい。
 ウーバーもエアビーアンドビーもどっちもまったく新しいプレーヤーがサービスを生み出した。共通するのはどちらもスマホが普及していることが前提ということだよ。ネットにいつでもどこでもアクセスできる環境があってこそだ。この環境の変化にどれだけ早く対応するかが大事なんだ。
 既存のビジネスへの影響を考えて手を出さないという判断は捨てなければならない。どうせ、他の会社が始めてくるのだから。特に既存ビジネスを持たない新勢力がな」

 建設業界にも、まったく別の分野から参入してきて、市場を奪ってしまう企業が現れるのだろうか。ネットで注文すると次の日には橋ができているような。さすがにこれは荒唐無稽だと自分の考えを笑いたくなった。しかし、最悪のケースを考えろ、というおやっさんの言葉を思い出した。想像の域を出ないが、絶対にないとは言い切れない。

「ところで、これからどこへ行くんだね」

 おやっさんが人懐っこい顔で聞いてきた。

「シリコンバレーです。先ほど話した来月から配属される新規事業開発部のために。発足前ですが、ベンチャーが次から次へと起業しているシリコンバレーを勉強して来いと、専務からの命令です」

 私は、異動を告げられたときのことを話した。

 2週間ほど前、私が現場の設計図を見ていると、岸谷専務がやって来て、会議室に来いと言う。

「杉下、君には来月から新規事業開発部で働いてもらうことになった」

 会議室へ入るなり、新しい部署への異動を言い渡された。まだ内示も出ていないのでオープンにはするなということだが、私の上司にはもう話がついているという。そして、異動する前に、シリコンバレーへいくツアーに参加するように言われた。

 岸谷専務は海外経験が豊富で、新興国市場を開拓してきた実績がある。そうしたことから今回の新規事業開発部の責任者になっている。

 ここまで話したとき、ゲートの職員が搭乗案内を始めた。

「もう搭乗時刻か」

 おやっさんはそう言いながら名刺を取り出して私に渡した。

「私は、こういう者だ」

 私が名刺を見て、ふと顔を上げると、おやっさんはすでにゲートに入ろうとしていた。私も、慌てて両手に荷物を持ってゲートに向かった。


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出典:「社長、ウチにもCTOが必要です」(日経BP) 第1章「経営者の危機感」を改題
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