「顧客第一主義。今風に言えばカスタマーファーストとでも言うのかな。そのためには、顧客のニーズを探ることがとても重要だし、顧客視点を持つことが大事だ」

 ここで森田さんは、私の顔を見て笑みを浮かべた。

「でもな、顧客は見るが、顧客に直接尋ねる必要はないんだよ」

 私は聞き間違えたかと思い、聞き返した。

「尋ねないということは、顧客の声を聞かないということですか」

「そう、聞かない」

「顧客第一主義なのに、顧客の言うことを聞くのではなくて、聞かないって。それって、どういうことですか」

「顧客は意外に彼らが抱えている課題の本質が分かっていなかったり、課題そのものに気づいていなかったりするということさ。例えば、顧客の工場から工作機械の注文が来たとする。当然、生産能力の高い工作機械を提案する。生産の最適化を目指すわけだ。しかし、実際は、別の部署である品質検査の能力が足りなくて、生産量が増えても対応できなかったらどうなる。生産性を上げるなら、品質検査の装置も能力を増強する必要がある。でもそれは生産部門に聞いても分からない。品質管理の情報を併せて知っておかないといけない。そして、生産だけでなく品質管理まで含めた工場の最適化を、そのトップに対して提案すべきなんだ。この場合で言えば工場長だな」

 コーヒーを飲みながら、検査しなければならない商品が工場の片隅にどんどん山積みされていく様子を思い描いた。

「これは分かりやすく、単純な例だ。もちろん実際はそれほど単純ではない。問題が工場で閉じているとは限らない。もしかしたら、下請けや販売店など社外まで含めないと課題が浮き彫りにならないかもしれない」

 森田さんの言うことは分かるが、顧客でさえ気がついていない問題点なんて分かるものだろうか。

 ここで森田さんはお姉さんにウインクした。

「ところで、コーヒーの横にチョコが置いてあるのに気がついたかい」

 見ると、コーヒーカップの横の小さな皿にチョコがあった。

「君の思案顔を見て、彼女が置いてくれたんだ。脳に栄養を与えたほうがいいと思ったのだろう。言われる前に出すところがポイントだよ」

お姉さんを見ると、もう一度、笑顔で会釈してくれた。

「リクエストに応えるだけでは駄目ってことですね」

そう言いながら、チョコを一つ口に入れると、ほどよい甘さが脳にまで届いた気がした。

「ちなみに私には、パクチーのポテトチップだったよ。パクチーは老化防止に効くからだとさ。さすがに気を利かせ過ぎだろうって言ってたんだ」

 それで私が来たときに笑っていたのか。

 そう言って再び笑う森田さんの白い歯が光っていた。

「ところで、君のやっている建設業ならどうだ。例えばトンネルを作るとき、トンネルのすべての工法を熟知している顧客ばかりではないだろう。ましてそのトンネルを使う市民のことがどれだけ分かっているのか。市民の生活、人口の動向まで見たら、ひょっとすると必要なものはトンネルだけではなくて、その先で景色が楽しめる高台の公園かもしれない」

 自治体の言うことだけ聞いて橋や道路を建設していても、本当の意味で価値のあるものになっていないということか。でも自治体は、市民のことを考えて道路や橋の建設を考えているはずだ。

「自治体は交通量とかを調べて、渋滞緩和など課題を把握していると思うんですが、どうでしょう」

「でも、人口が減少している自治体ばかりじゃないか。駅から1本通りを入るとシャッター街があって、工場だって誘致できないし。課題は山積みだと思うぞ。実際のところ市民の悩みをつかみきれていないのではないかな。市民も、自治体が何をしてくれるのか、何を期待すればいいのか、分かっていないんだよ」

「市民が分かっていなかったら、自治体には分かりませんね」

「そこがビジネスのチャンスだよ。市民も自治体も分かっていないんだから、それを見つけられれば、事業につながるだろう。コマツで中心になってコムトラックスを推進した方がこんなことを言っている。『顧客を深く理解し、顧客でさえ気がついていない価値を創造しろ』と」

「でも、どうやって顧客でさえ気がついていない課題やニーズを見つければいいんでしょうか」と疑問をぶつけてみた。

「どうしたらいいと思う?」

「ジョブズの言うように、心の叫びを聞くことでしょうか」

「ジョブズは天才だから、そこに期待するのは宝くじを買うようなものだよ」

 そう言って、森田さんは私の肩をたたいた。

「現場に行くことだよ」

「現場」

 思わず聞き返した。

「例えば、自動車メーカーのホンダには三現主義というのがある。『現場』、『現物』、『現実』の3つを直視するということだ。これは必ずしも、顧客のニーズを探すための言葉ではない。ホンダでは、自動車の開発・生産・販売・メンテナンスまですべてに三現主義の考え方が染み込んでいる。自分が実際に触れたものや見たものでなければ信じないということだ。顧客でさえ気がついていないニーズを知るためには、顧客の現場に行くことだ。仮説を立てたら、それを確かめに現場に足を運ぶ。あまりに当たり前だが、百聞は一見にしかずは、やっぱり正しい」

 森田さんは私に顔を向けた。

「ここで重要なことは、マーケティング担当や営業だけでなく、技術者も経営陣もなるべく多くの人が現場に足を運ぶことだ。情報を歩いて集める。客先にも、販売店にも、商品が使われている現場にも。ネットばかりに頼っていては駄目だ。これがあるから、どうしても頼ってしまうがな」

 森田さんはスマホを手に取った。その画面には孫と思われた女子高校生の写真はなく、代わりにスタイルのよい黒人の女性がポーズを取っている写真が載っていた。これまで建設業は顧客である自治体の言う通りに仕事をしてきた。自治体の言う通りに橋を架け、道路を作ってきた。それをこれからは、自治体が気づいていないニーズを探して、橋や道路を提案しなければいけないということだ。現場に行くだけで、自治体が気づいていないニーズが見つかるのか、分からなかった。

 そこに森田さんが助け舟を出してくれた。

「もう1つ、天才に頼らない方法があるよ」

「えっ」と顔を上げた。

「ホンダには、本田宗一郎という天才がいた。普通の人には天才のまねはできない。そこで普通の人でも何人か集まれば、天才に頼らずにイノベーションや革新的なことができるようにと、ホンダではいろいろな手法を編み出した。代表例がワイガヤだ。ワイガヤという言葉から、なんとなく人が集まって、わいわい意見を交わせばいいように思われるが、本当はそうではない。三日三晩泊まり込みでトコトン議論することで本質をつかむ方法だ。三日三晩、議論し続けようと思ったら上辺だけでは続かない。議論は本質論になる」

 客にとっての価値がどこにあるのか、三日三晩トコトン議論したら見つかるということか。しかし、トコトン議論するのに付き合ってくれる人がうちの社内にいるだろうか。そうした問題意識を持っている人。そのとき、岸谷専務の顔が浮かんだ。いや。三日三晩、専務と2人は絶対に避けたい。頭を振って岸谷専務の顔をかき消した。

 森田さんが私の悩んでいる姿を見て助言してくれた。

「最近は、自治体にも問題意識の高いのがいる。そういうとがった人とトコトン議論してみたらどうだ。そうしたら、本質が見えてくるのではないか。そういう人たちと知り合って、普段から情報を共有できるコネクションを作っておくことだよ」

 外部に議論する相手を探すのも手か。

 そうであればなおさら建設会社は、顧客や社会のニーズを先取りする感覚を磨く必要があるのではないか。そうしなければ、そのとがった人も相手にしてくれないだろう。自治体の先にいる市民のニーズも捉えておく必要がある。他から来た新興企業にすべてを持っていかれてしまわないように。

顧客第一主義
顧客の気づいていない価値を創造する
現場に足を運ぶ
トコトン議論する

 頭の中を整理しながら、もう1つチョコを口に入れた。


日経BP総研 クリーンテック研究所
日経BP総研は、日経BPが持つ総合研究所。クリーンテック研究所は、その一部門。環境・エネルギー、交通、IoT(Internet of Things)、スマートシティなどを含め、広範囲に及ぶ社会的課題解決をテーマとする。企業・産業の意思決定や国の政策決定への貢献を目指す。2010年設立。

ドリームインキュベータ
戦略コンサルティングを通じて、日本企業とともに社会のあり方を変えるビジネスプロデュースを実践。戦略コンサルティングスキルという、ビジネスにおける最も普遍的で有益な根源的スキルをベースとして、そのスキルを顧客企業へのサービスだけでなく、自社の投資・インキュベーション・事業経営にまで展開することで社会のあり方を変え、日本経済を元気にするビジネスプロデュースに取り組む。
出典:「社長、ウチにもCTOが必要です」(日経BP) 第3章「顧客の言うことは聞かない」を改題
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