全2380文字
PR

 「もう金はない」「大赤字、皆で雪辱戦」──。新聞に衝撃の見出しが踊った。2001年度(2002年3月期)、松下電器産業は4310億円(当時の数字。以下同)もの大赤字(最終損失)を計上。この事態を受けて取材に応じた松下電器産業(現パナソニックホールディングス)中村邦夫社長(当時)のインタビュー記事だった。ITバブル崩壊のあおりを受け、同社は創業以来、初めてとも言える経営危機に陥っていた。

2003年の中村氏
2003年の中村氏
「日経メカニカル(現日経ものづくり)」が同年5月号に掲載した特集「幸之助なき混迷、ゴーンなき復活」の扉。(出所:日経クロステック)
[画像のクリックで拡大表示]

 当時、最も驚いたのは、中村氏がリストラを断行したことだ。早期退職により、グループ全体で1万3000人もの社員の削減に踏み切ったのである。リストラは今でこそ珍しくないが、当時の日本企業ではタブー視されていた。松下電器産業においてはなおさらだ。なぜなら、日本的経営の原型とも言える「終身雇用制度」は、同社の創業者である松下幸之助氏が根付かせたと言われているからだ。

 同じく同社が打ち出した「年功序列型賃金」も「事業部制」も日本企業の多くが取り入れた。松下電器産業は長らく日本企業にとっての「お手本」だったのだ。そのため、同じくITバブル崩壊を受けて業績悪化に苦しんでいた多くの日本企業が松下電器産業をまねて早期退職制度を導入。社員のリストラを実施した。

 松下電器産業をこの危機から救ったのが、中村氏の大きな功績である。同氏は2000年11月に3カ年の中期経営計画「創生21計画」を発表した。この時に掲げたスローガンが、中村氏の代名詞とも言える「破壊と創造」だ。この破壊っぷりがすさまじかった。

 先の社員のリストラはその最たるものだが、それ以外にも、付加価値を生み出せない事業や競争優位にない事業は統合するか、切り捨てた。コスト削減も徹底すべく、資材の調達方法から開発費に至るまで全面的に見直した。さらには事業部に付属していた工場を独立させ、自主自立の道を歩ませた。要は、「大企業病」にさいなまれていた松下電器産業に大掛かりな手術を施し、利益体質の企業へと変えようと経営トップとして辣腕をふるったのが中村氏なのである。

「V商品」でシェアを回復

 同氏が次々と繰り出す破壊的施策を目の当たりにして、松下電器産業の社員の危機感は高まった。そして、この危機感が多くのヒット商品を生み出すことになる。そのけん引役を果たしたのが「V商品」だ。V商品とは、主戦場(ボリュームゾーン)でシェア1位を実現し、経営に大きく貢献することを義務付けられた製品のことである。2002年度(2003年3月期)に同社はこれらのV商品を次々と市場に投入し、シェアを向上させていった。例えば、DVDレコーダーはシェア50%を獲得し、デジタルビデオカメラのシェアは7~8ポイント上昇、電子レンジや掃除機はシェアを5ポイント以上アップさせている。

 なぜ、この時の松下電器産業はヒット商品を続々と生み出せたのか。一言で言えば、顧客の声に耳を澄ませて本音を聞き出したことに尽きる。当時取材した松下電器産業の社員は皆、「技術力には自信があったし、朝から晩まで懸命に働いていた」と異口同音に口にしていた。反省点は、市場調査に甘さがあったことだ。

 例えば、販売の最前線である家電量販店の声は、松下電器産業の営業部門を介して開発設計部門に伝わる仕組みとなっていた。ところが、家電量販店が発した製品に対する辛辣な評価は、営業部門のフィルターを通じて当たり障りのないマイルドな形となって開発設計部門に伝えられていた。プライドの高い技術者を傷つけないように営業部門が気を使っていたという。半面、辛辣な評価の中にこそ「顧客の本音」が詰まっているということに、かつての松下電器産業は気づかなかったというのである。

 中村氏の指揮の下、リストラ効果にヒット商品の連発が奏功し、松下電器産業は2002年度に1200億円の黒字(営業利益)をたたき出した。前年度に計上した2118億円の赤字(営業損失)から文字通りのV字形回復を実現したのだ。その後も、社長から会長に就任した中村氏の下で、同社の営業利益は2007年度まで順調に伸びていった。破壊のみならず、中村氏は創造をも成し遂げたというわけである。

 だが、その創造は長くは続かなかった。中村氏は自ら力を入れて創造した薄型テレビ事業でつまずいた。