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 “自動運転”という言葉は、いかにも未来を感じさせる魅力的な言葉だ。自動運転車ならば、居眠りしていても、外の景色に夢中になっていても、目的地まで安全に運んでくれるかのような印象がある。クルマを運転することに至上の喜びを感じる人を除けば、ドライバーが緊張感の中で運転しなければならない現在の自動車に比べると、何と快適で、便利な移動手段ができたことかと思える。

 その一方で、“自動運転”という言葉ほど、サプライヤー側とユーザー側で使い方が異なる言葉も珍しい。現状の技術では、いかなる走行環境でも人手にたよることなく機械だけで運転してくれるクルマは登場していない。ドライバーの操縦を支援する安全機能を備えたクルマ、もしくは非常に限定的な環境下で自動運転が実現しているクルマがあるだけだ。一部を除き、自動車業界の企業の多くは、“自動運転”“完全自動運転”“自動運転車”といった言葉を、かなり慎重に定義して使い分けている。しかし、こうした慎重な言葉の使い分けは、ユーザーには通じていない。ユーザー側は限定的な環境だけで自動運転可能なクルマも、ざっくりと自動運転車と呼んでいる。そして、自動運転を適用可能なシーンを拡大解釈してしまう人もいる。

 自動運転車による死亡事故の発生を契機に、あらためて自動運転車の安全について考えている今回のテクノ大喜利。4番目の回答者は、微細加工研究所の湯之上 隆氏である。同氏は、自動運転車の公道実験の必要性や、高度なアシスト機能の有用性は認めながらも、誤解を招きやすい“自動運転”という言葉の乱用が放置されている現状の危うさをしてきしている。

(記事構成は、伊藤元昭=エンライト
湯之上 隆(ゆのがみ たかし)
微細加工研究所 所長
湯之上 隆(ゆのがみ たかし)  日立製作所やエルピーダメモリなどで半導体技術者を16年経験した後、同志社大学で半導体産業の社会科学研究に取り組む。現在は微細加工研究所の所長としてコンサルタント、講演、雑誌・新聞への寄稿を続ける。著書に『日本半導体敗戦』(光文社)、『電機・半導体大崩壊の教訓』(日本文芸社)、『日本型モノづくりの敗北−零戦・半導体・テレビ−』(文書新書)。趣味はスキューバダイビング(インストラクター)とヨガ。
【質問1】現在の自動運転車の技術開発の動きを見て、危うさを感じる部分はありますか?
【回答】クルマメーカーが(不完全な)自動運転機能をクルマ販売の宣伝に利用していること
【質問2】自動運転車の安全性を一層高めるため、自動車業界が注力すべきことは何でしょうか?
【回答】“自動運転”という言葉を、いったん封印すること
【質問3】安全性を高めるため、電子業界やIT業界が注力すべきことは何だと思われますか?
【回答】言葉の乱用を避けること、各レベルから曖昧さを排除すること