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 ウクライナ危機に直⾯し、産業界は、地政学的リスクの相似形である台湾有事について真剣に考え始めたように感じる。台湾は、ウクライナとは⽐較にならないほど、ビジネスへのインパクトが⼤きい地域だからだ。特に、電⼦産業、IT産業、⾃動⾞産業においてその傾向が顕著である。

 これまでは、多くの企業が、生産コストの削減や市場へのアクセスの容易性などを重視して、製造や販売に最も有利な場所に拠点を置いて事業体制を最適化していた。こうした平時の発想を見直し、図らずも身近になった非常事態の発生を念頭においた、ビジネス体制の全体最適化が求められている。そうした体制見直しがどのようなかたちで進むのか、今、最も注目を集めているのがTSMCであろう。

 ウクライナ危機が電子産業やIT産業に及ぼす影響を議論しているテクノ大喜利。今回の回答者はMTElectroRsearchの田口眞男氏である。同氏は、米中対立を契機に徐々に進んでいた台湾TSMCの海外拠点設立の動きが、ウクライナ危機を契機にさらに加速する可能性を示唆。その際、巨大工場でチップを一括大量生産する従来の半導体産業のあり方とは異なる、分散型の新しいビジネスモデルが登場する余地があることを指摘している。

(記事構成は伊藤 元昭=エンライト)
田口 眞男(たぐち まさお)
MTElectroResearch 代表
田口 眞男(たぐち まさお) 1976年に富士通研究所に入社とともに半導体デバイスの研究に従事。1988年から富士通で先端DRAMの開発・設計に従事。メモリーセル、高速入出力回路や電源回路などアナログ系の回路を手掛ける。2003年、富士通・AMDによる合弁会社FASL LLCのChief Scientistとなり米国開発チームを率いてReRAM(抵抗変化型メモリー)技術の開発に従事。2007年からSpansion Japan代表取締役社長、2009年には会社更生のため経営者管財人を拝受。エルピーダメモリ技術顧問を経て2011年10月より慶應義塾大学特任教授、2017年4月より同大学の先端科学技術研究センター研究員。技術開発とコンサルティングを請け負うMTElectroResearchを主宰。
【質問1】ウクライナ危機によって、大きな影響を受ける可能性がある産業分野は?
【回答】 EV向けバッテリー産業と、一部のオーディオ機器

 プーチン大統領はロシア皇帝になる夢でも見たのだろうか。自分の思いを遂げるべく戦争まで始めてしまったが、最終的に誰の得にもならないだろう。世界の信用を失い、付き合ってくれるのは何らかの考えがある相手だけだろう。そもそもロシアは長年にわたって軍事用以外の産業技術にあまり投資しておらず、マイナス成長してGDPが2020年にはカナダ(9位)、韓国(10位)の次になり、どんどん貧しくなっていく状況だった。

 ロシアは、一部の資源の供給源である以外に、電子産業やIT産業のキープレーヤーではないし、半導体では存在感がない。食料、エネルギー関連、自動車分野での影響は大きいものの、それ以外の問題は時間とともに解決できると見る。世界は、ロシアはないものとして、いろいろなものごとが新常態に向かうのではないか。犠牲になるロシア国民がかわいそうでならない。

大きな影響を受ける分野はEVおよびバッテリー

 多くの識者が論じているので今更いうまでもない。原油や天然ガスをロシアから購入する動きはストップしエネルギー、化学分野はじめ諸々に影響がある。ロシアは自動車(中古車も含む)や機械の輸出先であり、高純度ニッケル(Ni)などEVやハイブリッド車用のバッテリーの原材料の供給元でもある1)

 ただし、EV用のリチウム(Li)イオンバッテリー業界では、戦争とは関係なく複雑な利害関係注1)が渦巻き、各社の思惑が交錯してサプライチェーンが定まらない状況だった。また、Liに代わってナトリウム(Na)を使うなどの技術的な大変革や電解質の固体化もあり、メーカーそれぞれの技術や資金事情に大手ユーザーの意向まで絡み合い、一歩選択を間違えれば会社が倒れかねない壮絶な戦いの中で今回の危機が訪れた。当面高純度Niを使わないわけにはいかないだろうから、全面的なEV化の時期に遅れが出るだろう。むしろ、政治的思惑から環境に逆効果の施策を行ったり、充電などのインフラが完備しない中で強行するくらいならば、理性的な判断をする機会にすべきだろう。もっともエンジン車もガソリンが高騰して使いにくいものになるから、燃費の良いハイブリッドが良いというトヨタ自動車の見立てが大当たりになる可能性もある。

大喜利的には一部のオーディオ装置産業

 ちょっと気分転換の閑話。オーディオの好事家は、真空管を使ったアンプを称揚する(図1)。日本や欧米の電機メーカーはとっくに生産をやめてしまい、今やロシア、中国、スロバキアで真空管の復刻生産が行われている。なかでも、ロシアにはいくつもメーカーがあり、最大の供給国になっている。今後入手困難になれば打撃が非常に大きい。

図1 筆者自作のアンプに使われているロシア製真空管
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図1 筆者自作のアンプに使われているロシア製真空管
出典:筆者が撮影

 だが、EV用バッテリーと違って社会的意義は低いし、代替技術(トランジスター)がある。困ったことになったが、ロシアがデカップリングされて本当に困るのはこの程度という意味である。もちろん、原油価格高騰で我々の社会は打撃を受けるが、だからといってロシアの蛮行に目をつぶれないだろう。それを考えると、中国はロシアとは違って産業での存在感の大きさを感じる。経済成長できない日本だって、その半導体製造装置産業なしには世界中の電子産業が機能しなくなるのだから、産業政策がいかに重要かをあらためて認識する。

■脚注
注1)自動車メーカー自身が電池を開発したり、米Tesla(テスラ)のようにパナソニックと組みながら自社で製造したりと、各社は技術的方針ですら一枚岩ではなさそうだ。かたや中国メーカーが巨大化したことで、そことも取引を拡大したりと、EV用バッテリーのサプライチェーンはグチャグチャの状況に見える。
■参考文献
1)野澤哲生、「ニッケル一時価格10倍に、3割ロシア企業産でEV電池に暗雲」、日経クロステック、2022年3月25日