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 ウクライナ危機は、第2次世界大戦後に何度か起きた地域紛争とは大きく質が異なる出来事である。国連の常任理事国であるロシアが直接関与し、しかも同じく常任理事国である米国、英国、フランスが明確に対抗策を打ち出している。両陣営は直接の戦闘こそしていないものの、国の価値観と国威の拠り所の違いに基づく対立構図を先鋭化させてきている。このため、休戦・終戦すれば関係が元に戻る一過性の出来事であるはずがない。もはや、世界の形は完全に変わってしまったのかもしれない。

 ウクライナ危機が電子産業やIT産業に及ぼす影響を議論しているテクノ大喜利。今回の回答者は東京理科大学大学院の若林秀樹氏である。同氏は、ウクライナ危機によって高まった地政学的リスク、さらには感染症のリスクは常態化したと見るべきだとしている。そして、日本の産業界は、平時であることが前提のグローバルな水平分業などを見直すことによる、新しい状態への適応が欠かせないことを訴えている。こうした適応の中で、衰えつつある日本の産業競争力の再強化を目指すべきとしている。

(記事構成は伊藤 元昭=エンライト)
若林 秀樹(わかばやし ひでき)
東京理科大学大学院 経営学研究科技術経営専攻(MOT) 教授
若林 秀樹(わかばやし ひでき) 昭和59年東京大学工学部精密機械工学科卒業。昭和61年東京大学大学院工学系研究科精密工学専攻修了。同年、野村総合研究所入社、主任研究員。欧州系証券会社シニアアナリスト、JPモルガン証券で日本株部門を立ち上げ、マネージングディレクター株式調査部長、みずほ証券でもヘッドオブリサーチ・チーフアナリストを歴任。日本経済新聞などの人気アナリストランキングで電機部門1位5回など。平成17年に、日本株投資運用会社のヘッジファンドを共同設立、最高運用責任者、代表取締役、10年の運用者としての実績は年率9.4%、シャープレシオ0.9、ソルチノレシオ2.1。この間、東京理科大学大学院非常勤講師(平成19~21年)、一般社団法人旧半導体産業研究所諮問委員など。平成26年サークルクロスコーポレーション設立、代表取締役。平成29年より、ファウンダー非常勤役員。平成29年より、東京理科大学イノベーション研究科教授。平成30年より現職(MOT)。現在、経済産業省の半導体デジタル産業戦略検討会議のメンバー、JEITA 半導体部会 政策提言タスクフォース 座長を務める。著書に『経営重心』(幻冬舎)、『日本の電機産業はこうやって甦る』(洋泉社)、『日本の電機産業に未来はあるのか』(洋泉社)、『ヘッジファンドの真実』(洋泉社)など。
【質問1】ウクライナ危機によって、大きな影響を受ける可能性がある産業分野は?
【回答】全産業が受けるが、希ガスなどよりも、重要なソフトや科学、教育

 2022年4月14日、筆者も有識者メンバーとして参加した経済産業省の「第5回 半導体・デジタル産業戦略検討会議」では、冒頭からウクライナ情勢が話題に挙がった。同省によれば、露光工程で使用されているネオン(Ne)、クリプトン(Kr)、キセノン(Xe)などの希ガスの生産量は、かつてロシアとウクライナで世界シェア6割を占めているといわれていたが、その後シェア減少の動きがあり、日本国内で依存しているのは6%にすぎないという(図1)。今後、同地域からの供給が途絶えたとしても、日本国内の各企業は一定の在庫を保有しており、短期的には供給に問題はないそうだ。ただし、中長期的には供給不足が予想され、半導体産業に影響が出る可能性はある。

図1 半導体の製造工程の中で用いられる主要部材とそれらが調達困難になる際の要因
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図1 半導体の製造工程の中で用いられる主要部材とそれらが調達困難になる際の要因
(出所:筆者が作成)

 こうした懸念に対し、上述の会議では設備投資の支援による生産能力強化やリサイクル装置の導入、回収率向上のための研究開発を推し進め、半導体製造の原材料である希ガスなどを安定的に確保していくそうだ。2022年中に企画・検討を完了させて、具体的な措置を開始。2025年までに対策を完了することを目指すという。同時に、同盟国と有志国間でサプライチェーン協力の枠組み構築を進めていく予定である。

 その他、一部パッケージング技術のメッキ材料として使用されるパラジウム(Pd)も、ロシアが主要な供給国となっており、世界需要の約33%を供給している。ただし、ロシアとウクライナだけではなく、中国への依存も大きく、米中摩擦でのリスクもある。

 日本政府は、SWIFTでの締め付け、半導体を含むハイテク57品目及び軍事転用リスクがある工作機械など、対ロシアの輸出禁止も公表している。こうした措置が中国にも広がる可能性もあり、インフレ、エネルギー不足の中で、サプライチェーンが一層、混乱を極めるだろう。

 これら半導体を製造する際のサプライチェーンも懸念すべきことではあるが、それよりも電子産業やIT産業全体にとって重大なのはソフトウエアである。ウクライナは、東欧のシリコンバレーと呼ばれ、ITでは、東欧どころか、欧州でも一頭地を抜いている。アジアにおける台湾、あるいはイスラエルと同様に、隣国による地政学的リスクを抱えながらハイテクで大きな存在感を示している。

 ウクライナがソフト開発に強いのは、旧ソ連時代から、核開発や原子力、航空宇宙分野の研究が進められ、科学技術立国であり、理系教育が盛んなためである。日本貿易振興機構(JETRO)の報告やウクライナ投資庁の情報によると、キーウ(キエフ)工科大学はじめ、現在150以上の技術系の高等教育を行う大学などの教育機関が存在する。ITクラスターも多く、キーウだけでなく、ハルキウ(ハリコフ)、リビウ、オデッサなど戦争被害で名前が出た都市にもある。ウクライナは13万人近い人材がエンジニアリングの学位を持ち、これはフランスやドイツより多いという。

 こうした優秀な理系IT人材を擁し、その割には人件費が安いため、世界トップ企業のアウトソーシング先、巨大企業のR&DやIT拠点となっている。アウトソーシング開発者数では、東欧第1位、Unity3Dでのゲーム開発者およびC++を使えるエンジニアの数で世界第1位、JavaScriptなどの開発者の数では第2位という。こうした人材を強みとして、クラウドデータ、ビッグデータ、サイバーセキュリティー、AIなどをアウトソーシングサービス提供している。日立製作所が約1兆円を投じて買収した米GlobalLogic(グローバルロジック)は、キーウやハルキウなどに5カ所のエンジニアリング拠点を持ち、全従業員の3割程度に相当する約7000名がいるようだ。この他、米Amazon.com(アマゾン・ドット・コム)、米Google(グーグル)、韓国Samsung Electronics(サムスン電子)、中国Huawei Technologies(ファーウェイ)なども既にウクライナにR&Dセンターを持つ。

 テレビなどで戦争被害の映像を見る度に、これら優秀なIT人材や拠点はどうなったのか、心が痛む。他方で、ウクライナ側の予想外の健闘は、まさに戦争でのIT力の差を表わしているとも言えるだろう。ロシアの攻撃により、こうした人材に被害者が増えれば、ソフトウエアのサプライチェーンに少なからず影響が出るし、世界のトップ企業は、アウトソーシング戦略など見直しが急務となるだろう。