かつての人気連載「私の駆け出し時代」が復活! 第一線で活躍する建築実務者の駆け出し時代を、「若き日の葛藤編」「ブレークスルー編」「失敗に学ぶ編」の3回に分けて深掘りします。
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香山壽夫氏、その3〔失敗に学ぶ編〕
現在、東京大学本郷キャンパスの歴史的な校舎群には、コールテン鋼の屋上階が増築され、昔ながらの風格あるキャンパスの雰囲気を残しながらも、新陳代謝を繰り返している。その最初のモデルケースとなったのが、東京大学工学部6号館の屋上増築(1975年竣工)。香山壽夫氏の設計だ。今もキャンパスの景観に寄与してい…
香山壽夫氏、その2〔ブレークスルー編〕
ルイス・カーンが教べんをとるペンシルベニア大学大学院に進学した香山壽夫氏は、冷たい物体ではなく、人間を包み込むような空間について学び、建築への考え方が大きく変わった。留学後、その学びを実践する機会に恵まれ、苦労しながらも、最初のプロジェクトである「九州芸術工科大学」を完成させる。(全3回のうちの第…
香山壽夫氏、その1〔若き日の葛藤編〕
今年81歳となる香山壽夫氏。東京大学工学部建築学科に入学したのは、丹下健三設計の旧東京都庁舎や香川県庁舎が完成した頃。丹下氏を旗振り役とするモダニズムが脚光を浴びるなか、その潮流に乗れない自分に気が付く。大いに悩み、禅寺で古建築のスケッチを繰り返す日々もあった。そんななかで、偶然目に留まったルイス…
佐野吉彦氏(安井建築設計事務所代表)、その3[失敗に学ぶ編〕
はた目にはスムーズに安井建築設計事務所を継承したかに見える佐野吉彦氏。しかしその過程では、先代の父・正一氏との価値観の違い、事務所運営の「路線闘争」を乗り越える道程が必要だった。(全3回のうちの第3回)
佐野吉彦氏(安井建築設計事務所代表取締役社長)、その2[ブレークスルー編〕
安井建築設計事務所に入社したものの、自分が何をすべきかをつかみとれない。そんな悩みを抱いていた佐野吉彦氏の転機になったのは、半年間の米国研修だった。実務を通して学んだ合理的なデザイン思考は、帰国後にプロジェクトや組織を運営していくうえで佐野氏の背骨になった。(全3回のうちの第2回)
佐野吉彦氏(安井建築設計事務所代表取締役社長)、その1[若き日の葛藤編]
創業者の孫として安井建築設計事務所を率いる佐野吉彦社長は、竹中工務店で社会人としての第一歩を踏み出した。多くの関係者が関与する複合プロジェクトに携わり、自然な合意形成がどのようにして生まれるかを学んだ。そうした設計の面白さを知った矢先、父・佐野正一氏に呼び戻される。(全3回のうちの第1回)
山本理顕氏(山本理顕設計工場代表、名古屋造形大学学長)、その3〔失敗に学ぶ編〕
山本理顕氏は1973年、ほとんど実務経験がないまま事務所を開設した。それでも仕事の依頼が舞い込み、次々と実現した。いずれも試行錯誤。なかには失敗もある。当時の仕事を改めて振り返ってもらった。(全3回のうちの第3回)
山本理顕氏(山本理顕設計工場代表、名古屋造形大学学長)、その2〔ブレークスルー編〕
山本理顕氏は、事務所を設立した当初から仕事に恵まれていた。周囲の先輩や友人から数々の住宅設計の依頼を受け、その住宅は雑誌で華々しく発表された。もちろん設計の中身が評価された結果だが、そこには山本氏を取り巻く豊かな人間関係があった。(全3回のうちの第2回)
山本理顕氏(山本理顕設計工場代表、名古屋造形大学学長)、その1〔若き日の葛藤編〕
共有部分を大きくして住宅を地域の一部として捉える「地域社会圏」や、社会に開かれた住宅を目指して「脱住宅」を提唱するなど、住宅やコミュニティーに関する持論を積極的に展開する山本理顕氏。その持論の萌芽は、大学院の論文や調査のなかにすでにあった。その視点が生まれたきっかけを聞いた。(全3回のうちの第1回…
藤江和子氏(藤江和子アトリエ代表)、その3〔失敗に学ぶ編〕
時代をリードする多くの建築家たちと協働してきた藤江和子氏。建築家との公私にわたる付き合いを通して、仕事への取り組み方から建築に対する考え方まで多くを学んだ。一方で悔いを残すのは、自身が身を置く家具デザイナー界の人たちとの交流だ。当時は、倉俣史朗氏や大橋晃朗氏などと深い会話を試みるまでの自信がなかっ…
藤江和子氏(藤江和子アトリエ代表)、その2〔ブレークスルー編〕
藤江和子氏の名を広く知らしめたのは「くじらシリーズ」だろう。スタートは、槇文彦氏の設計で1982年に完成した慶応義塾大学三田図書館。合板を重ね合わせた3次曲面を持つオブジェのようなベンチは、人が身体を預ける平面形を連ねることで生まれた。その思考は、「生き生きとした人々の風景をつくる」という意識へと…
藤江和子氏(藤江和子アトリエ代表)、その1[若き日の葛藤編]
藤江和子氏は槇文彦氏や伊東豊雄氏をはじめとする多くの建築家と協働し、単体の家具という枠を超えた家具を生み出してきた。デザイナーとしての第一歩を踏み出した宮脇檀建築研究室ではアシスタントとして多くの仕事に関わったが、実務の実力不足を痛感。自社工場を持つ会社に転職し、「デザインから制作までのリアルな作…
竹原義二氏、その3〔失敗に学ぶ編〕
建築における失敗とは何なのか。雨漏りや結露などは、多くの人たちが経験してきたことだろう。それは確かに失敗だが、克服すべき課題が明らかになった、と前向きに捉えることも必要だ。「失敗したら全力で直せばいい」と語る竹原義二氏に、駆け出し時代の失敗談を聞いた。(全3回のうちの第3回)
竹原義二氏、その2〔ブレークスルー編〕
これまで150件以上の住宅を手掛けてきた竹原義二氏だが、実は、最初に建築賞を受賞したのは、「延命湯」という銭湯だった(1984年渡辺節賞)。この延命湯は今も変わらず営業しており、地域のコミュニティーを育み続けている。社会のためになる建築をつくりたいという学生時代の志がかなったのだ。(全3回のうちの…
竹原義二氏、その1〔若き日の葛藤編〕
竹原義二氏の住宅が初めて建築専門雑誌に掲載されたのは、独立5年後に完成した13作目の「西明石の家」だ。それ以前のプロジェクトはあまり知られていない。独立時の心境とともに、1作目となる「勢野の家」について、話を聞いた。(全3回のうちの第1回)
小栗 新氏(Arup日本における代表者)、その3〔失敗に学ぶ編〕
2度目のロンドン赴任となった2003〜04年、小栗新氏はもう1つの空港プロジェクト「ヒースロー空港第5ターミナル」に携わる。担当したのは、ターミナルビルと駐車場棟の間をつなぐ5つのブリッジ。多くの関係者の合意を得て進めることが求められる役割だったが、ある会議で、方向性の違う発言に対して反論しないま…
小栗新氏(Arup日本における代表者)、その2〔ブレークスルー編〕
構造設計者として多くのプロジェクトを抱えていた小栗氏は、2000年代に入ると新しい道を踏み出した。自ら手を挙げて再びロンドンへ赴任し、プロジェクトマネジメントやデザインマネジメント(PM)の業務を学ぶ。それは、構造設計の実務に携わるうちに抱いた疑問を払拭するための選択でもあった。(全3回のうちの第…
小栗 新氏(Arup日本における代表者)、その1〔若き日の葛藤編〕
世界にネットワークが広がるエンジニアリング事務所、アラップ。1990年代初頭にアラップが東京事務所を開設した際、初めての日本人エンジニアとして採用したのが小栗新氏だ。入社数カ月後、構造設計の実務も英語も経験不足のままロンドン事務所に赴任する。リチャード・ロジャースなど最先端の建築事務所と協業する環…
(3)失敗に学ぶ編
駆け出し時代の頃は、もうからなくても不満はなかった。むしろ「社会的な建築をつくりたい」という初心のもとで、チーム一丸となって充実した設計活動をしていた。しかし、経済的に成功してくると、不思議なことにチームの関係性にも変化が生じる。また年を重ねると、それぞれの立場も変わり、仕事のやり方も変えなくては…
(2)ブレークスルー編
北山恒、木下道郎、谷内田章夫の3氏による「ワークショップ」は、「国分寺西町の家」が雑誌に掲載されたことで、建築家として大きく注目されることになった。バブル経済も重なって、商業建築の仕事が数多く依頼されるようになり、事務所も経済的に潤った。しかし一方で、商業の波にのまれ、「社会的な建築をつくりたい」…