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 建築設備分野の“レジェンド”ともいえる尾島俊雄・早稲田大学名誉教授。地域冷暖房や人工気候の研究に早い時期から取り組み、1970年代に都市環境工学の分野を切り開いた。修士時代から設計事務所を構えて実務に携わった尾島氏が、博士課程時に巡り合ったのが国立代々木競技場の設備計画だった。(全3回のうちの第1回)

尾島俊雄氏(写真:花井 智子)
尾島俊雄氏(写真:花井 智子)
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 大学を卒業したら、いずれ実家の富山市に戻って設計事務所を開こうと考えていました。

 そのためには構造や設備を知っておく必要があるので、まずは勉強しておこう。そんな気持ちから、卒業論文でたまたま専攻したのが設備です。大成建設から早稲田大学に迎えられた井上宇市先生(当時助教授)が博士論文を書いていて、そのお手伝いをしました。

卒業論文を執筆していた大学4年の尾島氏。井上助教授が行ったある実験結果の不備を指摘したところ目をかけられたという(写真:尾島 俊雄)
卒業論文を執筆していた大学4年の尾島氏。井上助教授が行ったある実験結果の不備を指摘したところ目をかけられたという(写真:尾島 俊雄)
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 その後進んだ修士課程では、井上研究室に所属しながら同期の阿部勤(アルテック代表)や相田武文(芝浦工業大学名誉教授)らとACO建築事務所を立ち上げて設計のアルバイトを始めました。当時は、大学4年生にもなるとアルバイトで住宅くらいは設計していたのです。

 尾島氏は、修士時代から幅広く設計の実務に携わった。井上助教授の手伝いで今井兼次設計の日本二十六聖人記念館(1962年)のトイレの給排水設計や、吉阪隆正設計の江津市役所(62年、島根県)の空調設計などを担当。父が重役を務めていた内外薬品商会(現・内外薬品)の仕事では、富山県内の工場や東京・市ケ谷の支社ビルの意匠設計を手掛けた。

 実務を通してひと通り設計ができるようになり、自信もつきました。修士修了後はゼネコンへの就職を考えましたが、修士2年のゴールデンウイークに進路を相談するため帰省した際、立山でスキーをして骨折してしまった。半年間ほとんど動けず、結局就職試験を受けられませんでした。研究室からも「修士のうち1人くらいは博士過程に進め」と言われ、やむを得ず研究室に残ったのです。

剣岳と尾島氏。小さいころから登山が好きで、海外に行くとその地の山に登ってきた(写真:尾島 俊雄)
剣岳と尾島氏。小さいころから登山が好きで、海外に行くとその地の山に登ってきた(写真:尾島 俊雄)
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