早稲田大学の博士課程に進んだ尾島俊雄・早稲田大学名誉教授は、高度経済成長期を画するビッグプロジェクトに再び携わる機会を得た。1970年の大阪万博で巨大なプラントを設け、日本で初めての本格的な地域冷房を導入した。その後も尾島氏は、成田空港や千里ニュータウンなどに万博で用いた冷凍機を再利用する際に引っ張りだこになる。(全3回のうちの第2回)
国立代々木競技場(国立屋内総合競技場)のノズルの実験と実施設計に明け暮れていた時期、東京大学の丹下研究室にしょっちゅう出入りしていました。
そこで磯崎新さんの目に留まり、設備設計の仕事を手伝ってほしいと声を掛けられます。「N邸」(1964年)や「大分県立図書館」(66年)、「福岡相互銀行大分支店」(67年)など、磯崎さんの一連の仕事で設備設計を担当しました。
博士課程を終えた1965年の7月には、井上宇市先生夫妻に連れられて40日間の米国旅行を体験します。代々木競技場の設備設計を手伝ったお礼という意味もあったのでしょう。私はもちろん井上先生にとっても初めての米国でした。
開催中のニューヨーク万国博覧会にも訪れました。驚いたのは、炎天下にパビリオンの前で何時間も行列して待っている人たちが次々に倒れていったことです。原因は空調の屋外機でした。強い日射に加え、室内をガンガン冷やす巨大な空調の屋外機から熱風が吹き出すため、とてつもない暑さになっていたのです。
当時のニューヨークは、早くもヒートアイランド現象が起こっていました。ガラス張りのレバーハウスは冷却塔の水不足で閉館し、水不足の世界貿易センタービル(WTC)ではハドソン川から冷却水を給水していました。
そうした厳しい状況を見る一方で、ジョン・F・ケネディ国際空港で地域冷房を採用していることも学びました。