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 駆け出し時代の頃は、もうからなくても不満はなかった。むしろ「社会的な建築をつくりたい」という初心のもとで、チーム一丸となって充実した設計活動をしていた。しかし、経済的に成功してくると、不思議なことにチームの関係性にも変化が生じる。また年を重ねると、それぞれの立場も変わり、仕事のやり方も変えなくてはいけなくなる。1994年にワークショップは解散する。ただ、「社会的な建築をつくる」という精神は、今も続いている。(全3回のうちの第3回)

ワークショップの3氏。左から、北山恒氏、谷内田章夫氏、木下道郎氏(写真:ワークショップ)
ワークショップの3氏。左から、北山恒氏、谷内田章夫氏、木下道郎氏(写真:ワークショップ)

もうかることで、チームが揺らぐ

 いわゆるバブル経済の最中、ワークショップは店舗の内装設計によって、多大な利益を上げたが、北山恒氏にとっては、それが失敗談だ。

 「国分寺西町の家」(1981年)が話題になったことで、建築家になれるかもしれない、という思いを持つことができました。ただ、まだ食べていくのは難しい状況で、塾の先生も続けていたところ、店舗の内装設計を始めたら、急激にもうかり出したんです。

 インテリアは、構造計算もいらないし、雨漏りのことも考えなくてよいし、家具づくりのようなもので、設計期間も短い。総工費が数千万円だと、その短期間で数百万円のお金が入ってきました。しかも、お店がオープンしてしまえば、メンテナンスもなく、クレームもありませんから、手離れがいい。こんなにいい仕事があるんだ、と味を占めてしまったのが、僕らの失敗談になるんでしょうね。

 それまでは、設計料なんて、もらえたらうれしくて、食べていけたらいいと思っていたのに、心持ちが変わってしまった。建築に向かう姿勢にもひずみが生じました。貧乏なときは、すごく純粋だったのですが。

 それと、僕が大学教員(横浜国立大学)になったことで、3人の勤務時間や報酬をイーブンにして働くことが難しくなったこともあって、解散することになりました。

 今思い返すと、ワークショップを設立してから5年くらいはすごく貧乏な時期が続きましたが、別に苦しくはありませんでした。未来が見えないから不安なんですけれど、創造は不安のなかにあるから、不安を楽しむことも大切だと思うんです。

 店舗の設計を続けるなかで、ワークショップの設計のスタイルにも変化が生じ、解散のきっかけになったかもしれないという。

 僕らは3人で徹底的に議論してから建築をつくっていましたが、店舗では、それもあまりうまくいかなかった。例えば、「国分寺西町の家」や「保谷本町のクリニック」(93年、「新建築住宅特集」の新人賞である吉岡賞を受賞)では、機能空間と機能のない空間を分けることで、変化に対応できる建築をつくろうとしました。こういう特殊な建築は、議論があったから生み出されたものなんです。感覚的なものが入らずに、言語化できるものだけで、建築ができていく。だけど、インテリアは感覚でつくるものでした。議論ではできない。なかなか難しいですよね……。