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竹原義二氏の住宅が初めて建築専門雑誌に掲載されたのは、独立5年後に完成した13作目の「西明石の家」だ。それ以前のプロジェクトはあまり知られていない。独立時の心境とともに、1作目となる「勢野の家」について、話を聞いた。(全3回のうちの第1回)

若い頃の竹原義二氏(写真:無有建築工房)
若い頃の竹原義二氏(写真:無有建築工房)
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 竹原氏は、師である故・石井修氏(美建・設計事務所)に対する深い尊敬の念を常に表明している。2人はどこで出会ったのだろうか。

 僕の実家は工務店で、設計事務所をやっている親戚もいましたので、子どもの頃から、なんとなく建築の道に進もう、と気軽に考えていました。ただ、工業学校(大阪工業大学短期大学部)の建築学科に進学して先生の話を聞いていると、建築はそんなに簡単ではなくて、「もっと勉強せなあかん」と気付かされました(笑)。建築を学ぶには、社会全体のことまで考えなくてはならない、そういうことを教え込まれたんです。ちょうど学生運動が盛んな頃でしたから、社会のことを考えるために、大学に進みました。

 建築学科の学生運動としては、保存運動がすごくはやっていました。ちょうど、中之島の市役所、図書館、公会堂を建て替えるという話が出ていたので、僕らもそれに異を唱えて、中之島の建築を残すべく、運動を起こした。今の中之島があるのは、このときの保存運動が実ったからなんですよ。すごいことやと思います。

 この保存運動をしているときにも、建築だけではダメだと感じました。デザイナーとか、たくさんの人たちと協力することで、中之島祭りを実現することができたんです。路上で寝泊まりしながら、仮設の舞台をつくったりしました。

 そのお祭りの付き合いのなかで、滝沢真弓さん(分離派建築会のメンバー)が、家の中の蔵書を持って行っていいというので、それをトラックで運び、祭りの日に売っていました。僕は無知で、そのなかに貴重な本がたくさんあったということを、全く分かっていませんでしたから、祭りの資金源にするためにたたき売りを(笑)。そのとき、石井先生が来て、「すごい本がある」と買って行かれたのが、最初の出会いでした。

 ちょうど美建(石井修氏の設計事務所)に勤めていた大学の先輩がいたので、入れ違いで入所することになりました。先生に「どこかで会ったことあるよな」と言われ、「実は中之島で」というやり取りをして(笑)。