日本の自動車技術者で、最も有名な一人が人見光夫だ。エンジン一筋38年。マツダ躍進の中核を担う、「スカイアクティブ(SKYACTIV)」エンジンの開発を率いてきた。世界シェアが2%に満たない“小兵”のマツダが、世界のエンジン開発競争で先頭を走る――。10年前、誰が想像しただろう。
人見がマツダに入社したのが1979年。スカイアクティブの実用化が2011年だ。57歳になっていた。会社人生の最終コーナーで、華々しい成果を生み出した。天才技術者とも称される。だが入社して長い間、ふてくされていた。
モチベーションなんて、なかったですよ。ずっとむなしいだけ。金くれるんだからまあいいわ、くらいに思って働いてました。

流川(ながれかわ、広島市の繁華街)で飲んでは酔っぱらって、「あんな訳も分かっていないクソおやじにバカにされんといかんのか」と、ぶちまけてました。技術を知らないやつに、何度も拒否されるわけです。辞めようと何度も思いました。おかげで大酒飲みですわ。
まあ、前から好きだったのもありますが。
人見が最初に配属されたのが、エンジン先行開発課である。自動車メーカーの主力である商品開発部門に、新しい技術を提案する。入社して8年後に技術研究所が立ち上がり、人見は部署ごと移る。会社人生の大半を先行開発部門と技術研究所で過ごした。
マツダに入社したのには、大した理由はありません。実家(岡山県)に近い広島県の自動車メーカーだったので。航空工学出身で、大学卒業後に自動車メーカーに入る同期が多かったんですよ。それでなんとなく。
宇宙に興味はなくて、飛行機を眺めるのが好きでした。入社してみると配属希望を聞くというので、心臓部のエンジンでもやるかという軽い感じで選びました。
研究所にいましたが、当時は規模も設備も小さく、研究所と言うには恥ずかしいもんでしたよ。それでも最初の頃は新しいアイデアを一生懸命に考えていました。
スカイアクティブは、80年代の仕事
熱心に試していたのが、吸排気系の可変制御でした。エンジン筒内に入れる空気量を制御したときの性能変化を調べるんです。
その頃、燃料と空気を混ぜて筒内に入れる仕組みが、機械式のキャブレターから電子制御式インジェクターに移り変わる時期でした。燃料と空気を自由に制御できるようになった。吸気弁を長く開けたり閉じたりするとトルクがこんなに変わるぞ、といったことを研究していました。排気系もいじって。