「ぶつからないクルマ?」で一躍注目を集めたSUBARU(スバル)のアイサイト(EyeSight)。大ヒットの裏側に、逆風時代を支えた“ある企業”の存在、そして社運を懸けた決断――。アイサイトと共にスバルの歴史を歩んだ開発者の1人、樋渡穣氏に話を聞いた。(聞き手は石橋拓馬、中山 力)
開発が風前のともしびに
運転支援システムとして初代の「ADA」(アクティブ・ドライビング・アシスト)を搭載した「レガシィ」を発売したのは、1999年9月です。当時はとにかく、ステレオ法によるプリクラッシュセーフティーを他社より先に出そう、という技術オリエンテッドな面が強かった。ですので、開発費も膨らみ、値段も跳ね上がってしまいました。当時の営業はすごく苦労したと思います。
初代ADAを発売してから4年くらいは、ステレオカメラにミリ波レーダーを追加して機能を増やすなど、手を尽くしましたがほとんど売れませんでした。2006年には、一度ステレオカメラを撤廃して、レーザーレーダーだけを取り付けたACC(アダプティブクルーズコントロール)機能を発表しました。実はこちらは評判が良かったのです。制御についてはつくり込んでいたので、カメラをレーザーに変えるだけでも良い機能になったのでしょう。
それでも、「やはりステレオカメラでないと、人の目の代わりにはならないのではないか」と、ステレオカメラの研究を続けていました。必要なのはコストダウンです。これまでカメラ側と制御側でそれぞれに搭載していたCPUを一体にして、原価を下げるといった検討を進めていました。
ところが、ADAが全然売れていない状況なので、社内からは「ADAの開発は諦めろ。その方法では普及しない」という声が強まってきました。まさに逆風時代です。当時のカメラのサプライヤーも、「事業を撤退する」と私の所に直接言いに来ました。年に200台しか売れなければ、そうなります。
開発費も削られたので、自治体の助成金などを利用しながら細々と開発を進めていました。そんなとき、単眼カメラの技術を持っている後の日立オートモティブシステムズ(日立AMS、現日立Astemo)の研究部長がスバルの研究に興味を持ち、「やりましょうか。我々が」と、手を差し伸べてくれたのです。日立AMSには単眼カメラの技術だけでなく、システムに関しても「機能をもっとシンプルにしましょう」など、アドバイスももらいました。
結果、ステレオカメラでの大幅なコストダウンに成功しました。社内でも徐々に認められるようになり、08年に第3世代の「レガシィ」に再びステレオカメラを搭載したのです。このときに、ADAから「アイサイト」にリネームしています。ただし、当時はまだ運転者が過信してしまうという理由で、車を完全に停止させることが禁止されていたので、「衝突被害軽減ブレーキ」の機能にとどまっています。