トヨタグループの奥の院、豊田中央研究所(豊田中研)。自動車技術の先行研究を手掛ける研究所と思われがちだが、本来はクルマの次の飯のタネ、つまり新規事業の開発が使命だったという。米ミシガン大学教授と豊田中研の2足のわらじを履きながら研究を続け、現在は豊田中研の代表取締役所長を務めるミシガン大名誉教授の菊池 昇氏に、豊田中研の成り立ちと役割、研究に対する信念などを聞いた。(聞き手は木崎健太郎、中山 力=日経クロステック)
豊田中央研究所(以下、豊田中研)といわれても多くの人はおそらく、どんな研究をしている研究所なのかをご存じないと思います。私もここに移る前、米ミシガン大学で研究をしていたころはよく知りませんでした。トヨタ系の研究所だろうねというくらいの認識しかなかったのが実際のところです。
自動車会社の中央研究所だからクルマ技術の先行研究が主ではないか? といったイメージでしょうか。しかし豊田中研が今から約60年前、1960年に設立された際の目的は「自動車の次に手掛ける事業のための研究」でした。つまりクルマとはあえて関係ない領域の研究を志していました。具体的には電池、自動制御、さらに酵素・触媒が主な研究テーマ。現在はクルマに関連する技術の研究が増えていますが、もともとはクルマ技術と直接関係しない、むしろあえて離れた役割を求められた研究所だったのです。
発端はトヨタグループ創始者の豊田佐吉さんです。佐吉さんは豊田自動織機製作所(当時、現在のトヨタグループの基礎となった企業)を設立した当時に、これから日本が実現すべきテーマは高性能な電池である、100馬力出せて、小型飛行機に積んで太平洋を渡れるくらい持続する革新的な電池を造る必要があると考えていたそうです。当時はエンジンのスターター駆動への鉛蓄電池の応用は始まっていましたが、佐吉さんは電池で走ったり飛んだりすることを考えた。
息子でトヨタ自動車を創業した豊田喜一郎さんがその実現のための研究所を東京・芝浦につくったのが、トヨタ自動車(当時トヨタ自動車工業)が発足する少し前の1936年。数年後に私たちの前身でもある豊田理化学研究所となります*1。
時代が下って1960年代のトヨタ自動車は、トラックに加えて乗用車も造れるようになり、輸出の可能性も視野に入ってきて、大変に意気軒高でした。そこで佐吉さん、喜一郎さんの宿願だった、自動車の次の事業、将来の事業の種を考える研究所の設立に動いたのです。トヨタ自動車の中では自動車造りの課題解決に引き込まれるおそれがあるので、開発や生産の現場からはちょっと離れたところで将来の事業の種を考えてほしいと設立されたのが現在の豊田中研の始まりです。