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フェイルセーフの原理をはじめ、安全の研究をライフワークとする明治大学名誉教授の向殿政男氏。人間、技術、組織の3者が補う「協調安全」の推進を目指す中で、鉄道開業150周年の節目に、鉄道総合技術研究所(鉄道総研、東京都国分寺市)のトップを務める。鉄道はまさにフェイルセーフを基本とするシステム。安全の追求は、経験に頼るだけではなく理論的枠組みが必要であり、情報通信技術の活用も進めるべきだ、と研究機関の役割の大きさを説く。(聞き手は木崎健太郎、高市清治、吉田 勝)

鉄道総合技術研究所会長の向殿政男氏
鉄道総合技術研究所会長の向殿政男氏
明治大学顧問・名誉教授・校友会名誉会長。(写真:加藤 康)
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 いろいろなところで、よく「ハイボールの原理」についてお話をしています。お酒のハイボールにも関連する話です。

 ハイボール、すなわち高く掲げたボールは昔の英国の鉄道で安全の合図に使っていました。低いボールを安全の合図にしてしまうと、何かの不具合でボールを上げられないときにも列車が出発してしまうので、安全を示す信号はエネルギーの高い状態に対応させるのが基本。列車を待つ人々がウイスキーを飲みながら待っていて、ハイボール信号を見て、ウイスキーを炭酸で割って一気に飲んでホームに向かったというのがハイボールの語源であるという説があります。

 このハイボールの考え方は、フェイルセーフの基本原理の1つです。私はフェイルセーフの基本原理についての研究をライフワークにしてきましたから、鉄道には以前から大変興味がありました。鉄道は、(列車や線路が)壊れるような状況では必ず列車が止まる方向に働くシステムになっているのです。

評議員を13年間務めて会長に

 私の修士論文と博士論文は、フェイルセーフの論理素子の作製でした。コンピューターが普及する以前から論理的な制御に使われていたリレーは、故障すると必ず回路がオープンになって電流が止まり、機器の動作を止めます。これを電子回路で実現せよという課題でした。

 電子回路は、不具合でオープンにもクローズにもなるし、振動とかちょっとした雑音でも変な動作をするなど、重要な箇所には危なくて使っていられなかったのです。なかなか難しかったですが、電子回路に故障が生じたら必ず電流が流れないとか、出力しなくなるなどの安全側に状態を変化させるフェイルセーフ論理回路を作りました。

 明治大学の教職員になり、最初は電磁気学、そのうちコンピューターサイエンス関連のファジー理論やニューラルネットワークなどを担当する中でも、フェイルセーフの研究はライフワークとしてずっと続けていました。「ファジーもいいけれども安全の研究に戻るべきだ」と励ましてくれる人もいて、機械安全や労働安全、製品安全、消費者安全と、安全に関する研究の幅を広げてきました。

 その安全の研究会や、研究室の卒業生などを通して鉄道総研と接点ができて、あるとき評議員になってほしいと言われました。評議員は13年間続けて、2年目からは議長も引き受けていたのです。だから鉄道総研の取り組みはよく分かっていましたし、日本の鉄道技術の基礎を科学的根拠に基づいて進展させているという点で興味を持っていました。会長になってほしいというお話があったときは、喜んでお受けしたいと答えました。

就任後に新型コロナの逆風

 そうして会長になった2020年6月は、新型コロナウイルス感染症の拡大が始まっていた時期でした。「感染拡大防止のため不要不急の外出は控えましょう」などといわれて、鉄道が大変な逆風にさらされ始めたときです。でも、新型コロナの前から少子化や人口減少は進んでいましたし、地方では廃線が進行していて、もともと順風ではありませんでした。

 一方で、世の中がカーボンニュートラル(温暖化ガス排出量実質ゼロ)を目指して動き始めたという追い風もあります。鉄道は大量輸送を実現する割には二酸化炭素(CO2)をあまり出しませんから、その利用をもっと広げるべきだと。

 菅義偉前首相が国会の所信表明演説でカーボンニュートラル宣言をした(2020年10月)のも、私が鉄道総研の会長になった後のことでした。そして、今年(2022年)は鉄道開業150周年の節目を迎えました。

 鉄道に本格的に関わるようになって、世の中を大きく変えられるなと思っています。いろいろな交通手段と連係して、都市と都市の間をつなぐ役割は鉄道が担うなど、賢いやり方がたくさんあるのではないでしょうか。バスと協力してもっと便利に移動できるようにする、自家用車で駅まで来てもらって遠くには鉄道で行くなどの方法をもっと推進できるでしょう。

 カーボンニュートラルは1つのきっかけですが、地方を活性化するにはやはり人の移動が必要です。貨物も、長距離をトラックで1台ずつ運ぶより列車でまとめて運べば、ドライバー不足や労働環境の問題を軽減できてCO2排出も削減できる。新型コロナで人間の動きは減ったかもしれませんが、荷物は動かさざるを得ませんから。