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 サビハ・ギョクチェン国際空港に降り立つと、かすかに香水の香りがした。外国人が最初に日本に来たときは醤油(しょうゆ)の香りがすると聞いたことがある。イスタンブールでは香水が文化として根付いているのかもしれない。

 2023年2月、私は休暇を取得し、同行する友人とトルコを旅していた。同月6日にトルコ・シリア地震が発生してから約2週間後のこと。何人かから、「こんな時期に旅行するの?」と心配もされた。ただ、数カ月前から準備していたことと、報道の”外側”にあるトルコの今を知りたいという気持ちが私の背中を押した。震源地付近を避けながら、同行する友人と旅することを決めた。

鞄(かばん)を盗まれ、ケバブ屋の主人たちに助けられる

 トルコ旅行は10日間にわたった。初日は巨大なモスク「アヤソフィア」で有名な街・イスタンブールで過ごした。日本でいう京都のような立ち位置で、世界中から観光客が集まる。地震などまるでなかったのではないかと錯覚するほどに賑(にぎ)わっていた。東西混交(こんこう)の意匠が施された建物群が続く。道路には、路面電車(トラム)が人の波をかき分けるように進む。街中のスピーカーから流れるコーランの音色が、イスラム教文化を感じさせた。

ガラタ塔から望むイスタンブールの街並み
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ガラタ塔から望むイスタンブールの街並み
(写真:日経クロステック)

 そんな異国情緒への興奮や36時間に及んだ空の長旅注)の疲れから、私はすっかり油断していたらしい。イスタンブールで出会った青年に、トルコへの到着早々、私は鞄(かばん)を盗まれてしまった。

注)飛行機のトランジット(乗り換え)を2回挟んだため、長旅になった。例えば、羽田空港からの直行便であれば通常半日ほどで着く。

 「こんにちは。どこから来たの? チャイをおごるよ」。旧市街を南北に分かつ金角湾のほとりで休んでいると、声を掛けられた。外国から来たという学生を名乗る青年だった。彼は紅茶のような飲み物であるチャイを、路上の売り子から買って渡してきた。「トルコが好きでよく来るんだ」と青年は言った。話は弾み、「一緒にケバブでも食べようか」という流れになった。

 盗まれたのは、イスタンブールのケバブレストランでのこと。ケバブが届くまでのわずかの間に、青年は目前で鞄を取り、店外に逃げ出した。追いかけたが、既に行方をくらましている。「鞄を持った男を見ませんでしたか?」とレストランの店員に聞いたが、英語が通じない様子である。私は途方に暮れた。

 私はこれまでの人生で、物を盗まれた経験が一度もなかった。ひとえに日本の治安が良いからである。鞄には幸い貴重品は入っていなかったが、羽田空港でレンタルしたWi-Fiルーターが中に入っていた。店員にジェスチャーや翻訳アプリを交えて事情を説明した。「それは災難だったね。日本人は人を信じやすいからよく騙(だま)されるんだ。路上で会った人とは話さないほうがいい」。デイビッドという名前の中年男性は親身になって聞いてくれた。

 海外で物を盗まれた場合、警察署で証明書をもらうために証拠が必要なときがある。店内に設置された監視カメラの映像を見せてほしいと頼むと、デイビッドさんは快諾してくれた。

 映像を手に入れるまでの間、私は数人の店員と話をした。親切にもチャイやナッツを提供していただいたおかげで、すぐに落ち着きを取り戻せた。話題は先の地震に移った。「イスタンブールから被災地は900kmぐらい離れているから、私たちには被害はない。けれど、悲劇だ。親を亡くした子供たちが心配だ」とデイビッドさんは悲しんだ。実際、表面上はイスタンブールで地震の爪痕は見えてこない。だが、店内のテレビでは常に地震のニュースが流れていた。

 映像を手に入れたときには、我々は友人になっていた。「トルコに来た際にはいつでも店にいらっしゃい」とデイビッドさんは微笑(ほほえ)んだ。礼を告げる私に、彼はこう言った。「人を助けるのはトルコでは当然のことだよ。旅を楽しんで」

トルコは猫の多い国である
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トルコは猫の多い国である
(写真:日経クロステック)