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 「インタラクティブアート」は、鑑賞者の参加を前提としたアートです。絵や彫刻や映画といった昔からあるアートは、鑑賞者が何をしようと何を感じようと、アートそれ自体が変化することがありません。対照的に、インタラクティブアートは鑑賞者の動きなどをセンシングし、それを表現物にフィードバックすることで、アート自体が変容します。

 先日、最先端のテクノロジーを活用したインタラクティブアートの内覧会に参加してきました。KDDIのコンセプトショップ「GINZA 456 Created by KDDI」で、チームラボとKDDIが創作した作品のお披露目があったのです。双方向性を実現するために、低遅延という特徴を持つ5G(第5世代移動通信システム)を利用しているとの触れ込みでした。

 しかし、残念ながら記者はあまり感動しませんでした。作品はAR(拡張現実)を活用した内容で、スマホアプリを操作して、会場の壁面に投映されているさまざまなチョウを捕まえるというものでした。捕獲に成功すると、壁面のチョウは消えます。これは確かに双方向的です。しかしこのような双方向性は、色彩や音楽といった他の情報の陰に隠れてしまっており、全体として統一感がない中途半端な展示に見えました。

記者が観に行った内覧会は映像的にはとてもきれいだった
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記者が観に行った内覧会は映像的にはとてもきれいだった
壁面には綺麗な映像が映し出されており、その中に多数のチョウが飛んでいる。AR(拡張現実)に対応したスマホアプリのカメラを壁面に向けると、その画像情報がスマホからコンテンツサーバーに伝送される。サーバーでは、その画像内のオブジェクトを基にユーザーが壁面のどの地点にいるのかを検知する。ユーザーがチョウを捕まえるアクションを起こすと、それに応じて壁面のチョウを消すという仕組みだ。人が壁面に触れると、人感センサーがそれを感知して、映像に微妙な変化をつくりだすという仕掛けもある。(写真:日経クロステック)

 一般にアートは、アーティストが自分の感情や感覚を伝達するために、何らかの手段によってそれらを表現したもの、といわれています。絵画であれば、形や色や構図などが表現の要素であり、小説であれば、物語や構成や文体などがそれに当たります。

 同じ理屈でいえば、インタラクティブアートはその定義からして、作品と鑑賞者におけるコミュニケーションのあり方が肝になります。双方向性が作品の本質として実装されていれば、たとえ色彩や音楽が安っぽくても、何らか心が動かされるはずです。ところが当の展示は、むしろ色彩や音楽のほうが主眼になっているという本末転倒な印象を受けました。中途半端な印象を持った理由はここにあります。

 アーティストはコミュニケーションに関心があるからこそ、インタラクティブアートというメタコミュニケーション的なアートの形態を選ぶのではないでしょうか。その形態の深部にコミュニケーションを組み込まないならば、むしろ双方向性を排除して、コミュニケーションを題材にした絵や音楽をつくり直したほうが、よほど効率的に主張を伝達できるかもしれません。

 チームラボとKDDIの作品にはとても臨場感があり、技術的な面白みもあったので、決して作品が良くなかったわけではありません。ただ、作品に組み込まれている双方向的な要素の強度が、視覚的・聴覚的な要素よりもあまりに弱く、双方向性を持たない単なるメディアアートと区別がつきにくい、という感想を持ちました。そして、同じことが他の一部のインタラクティブアートにもいえるのではないかと感じました。

 このことは考えてみれば当然かもしれません。アートと鑑賞者の間で深いコミュニケーションを実現するには、鑑賞者の思考や感情をセンシングするのが得策ですが、その技術がアートの分野にあまり浸透していないからです。今回の作品は、「専用アプリを操作する」「映像が投映されている壁に触れる」といった人間の行動に関する双方向性の次元にとどまっていました。動作とのひもづけで作品に面白みを持たせるのは至難の業ですし、色や音の煌(きら)びやかさが前面に出てしまうのも仕方がないのでしょう。

 実は「うれしい」や「イライラする」などのユーザーの気持ちを推定する感情推定技術は、自動車業界や家電業界といった分野では確実に活用が進んでいます。舞台上のミュージシャンが観客の興奮を直接感じ取って演奏に変化をもたらすように、これらの感情推定技術をアートに応用すれば、これまでにないインタラクティブアートを実現できるのではないかと記者は感じています。