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 次世代技術と目される量子コンピューターは、既存のコンピューターでは解けないさまざまな課題を解決できる(図1)。ただ、研究開発(R&D)費や利用コストが高額になるなど課題も多い。R&Dに取り組む企業にとっては悩みの種だが、量子コンピューターの導入に後れを取ることへの危機感はそれを上回る。筆者は取材を通して、量子コンピューターが業界内の競争環境を大きく変える可能性と企業の危機意識を強く感じるようになった。

図1 企業にとって量子コンピューター技術に後れを取ることへの危機感は大きい
図1 企業にとって量子コンピューター技術に後れを取ることへの危機感は大きい
(写真:米IBM)
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 化学業界では複雑な化学反応の仕組みを量子コンピューターで解明する研究が進んでいる。化学メーカー大手の三菱ケミカルは、量子コンピューターの実機を使ってリチウム(Li)空気電池や有機EL発光材料の反応状態を解明する取り組みを進めている。今はまだ現在の“古典”コンピューターでもシミュレーションできる小規模な計算を確認した段階だが、将来量子コンピューターの性能が高まれば優位性を発揮できると見込む(図2)。

図2 有機EL発光材料の励起状態を量子コンピューターで計算した結果
図2 有機EL発光材料の励起状態を量子コンピューターで計算した結果
(出所:三菱ケミカル)
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 複雑な化学反応やエネルギーのシミュレーションは困難で、現状のコンピューター技術を使って計算するのには限界がある。そのため詳細な仕組みを解明するには量子コンピューターが欠かせない。ただ、複雑な計算ができる量子コンピューターの実用化は2050年ごろとされ、息の長いR&Dが必要だ。

 三菱ケミカルScience & Innovation Center Materials Design Laboratoryの上席主幹研究員である高玘氏は、「高精度な計算ができるようになるまで先は長い。今はアルゴリズムを蓄積して、一歩一歩開発しているところだ」と語る。現状の量子コンピューターには「量子誤り」というエラーが発生しやすい課題があり、ハードウエアとソフトウエアの両面で改良が必要になる。

 まだ大々的な成果が出ていない段階で、「(量子コンピューターのR&Dに)かけられるコストや人材は限られる」(同Materials Design Laboratory所長の樹神弘也氏)のが実情だ。三菱ケミカルは、米IBMが米国やドイツ、日本で提供しているゲート型商用量子コンピューターを使ってR&Dに取り組んでいる。具体的な利用額は非公開だが、「大きな量子ビットを利用するプランは高額なコストがかかる」(業界関係者)とされる。

 量子コンピューターが普及する数十年先の未来を見据えて投資を続けるのは企業にとって大きな負担になるが、樹神氏は「やらないわけにはいかない」と語る。量子コンピューターの登場で業界内の勢力図が一変する可能性があるためだ。化学メーカーにとって膨大な化学材料に関するデータや、情報科学を活用する「マテリアルズ・インフォマティクス(MI)」などは競争力に直結する。将来、量子コンピューターを使ってこれらの知見や技術を容易に得られるようになれば、これまでの優位性が覆される恐れがある。

 顧客メーカーとの関係も変わるかもしれない。例えば新素材を提案するビジネスモデルでは顧客との対等な話し合いが可能だが、顧客が量子コンピューターの技術を持てば「この材料をつくって持ってきてくれ」と指示されるだけの“下請け”になりかねない。