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 感情推定/操作技術の普及を目指す国家プロジェクトが始動した。2050年の日本社会を目指した「ムーンショット目標9:2050年までに、こころの安らぎや活力を増大することで、精神的に豊かで躍動的な社会を実現」だ。

 この、一見突飛(とっぴ)な計画を記者が耳にしたのは2021年のこと。正直なところ、まず思い浮かんだのは「それって反理想郷(ディストピア)じゃないか?」という感想だった。SF小説で幸福の度合いが貧富のような格差になる社会や、人々が“幸福”であることを強いられる様は度々描かれてきた。幸福が政府によって管理されるのであれば、記者としては歓迎できない。

 だが、実際にムーンショット目標9の取材を進めていくと、記者の想像は良い意味で裏切られることになった。感情推定技術は“もろ刃の剣”ではあるものの、使い方さえ間違えなければ社会をより良い方向に導くかもしれないと考えるに至った。カギとなるのは、倫理的観点。具体的には、匿名性と主体性である。

感情マッピングで脳の動きを把握

 ムーンショット目標9は、2022年9月にキックオフした。内閣府が主導する、ヒトのデジタルツイン技術や量子技術などを含めたムーンショット目標の1つである。精神医療や情報工学、哲学などの国内研究者が集結し、全13の研究プロジェクトを推進する(図1)。

†ムーンショット計画=「人々の幸福の実現」を目指し、内閣府が主導する研究プロジェクト。主な目標時期は2050年(目標7を除く)。ムーンショット目標9は2021年に決定した。

2022年9月のキックオフシンポジウムに登壇した科学技術振興機構(JST)理事長の橋本和仁氏
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2022年9月のキックオフシンポジウムに登壇した科学技術振興機構(JST)理事長の橋本和仁氏
同イベントで橋本氏は「このプロジェクトは必ず実現しないといけない」と力説した(写真:日経クロステック)

 記者が理解した骨子はこうだ。感情推定技術を使えば、これまでDSM(精神障害の診断と統計マニュアル)に基づく問診などに頼っていたヒトの心の病を、可能な限り定量的に診断できる。ただ、心の状態を高精度に把握するためには現状不十分。そこで国プロを通して、侵襲型センサーなどを使った動物実験で心の動きを研究し、センサー情報と感情推定のマッピングを進める。

 例えば、マウスに外敵の映像を見せれば、緊迫時の脳波の変わり方が分かる。同じように、他のマウスを助けたり、空腹時に食べ物が得られたりした時にどのように感情が変化するかを調べていけば、喜怒哀楽さまざまな感情でどのような脳波・脈拍を示すかをデータ化できるというわけである注1)

注1)実際にプロジェクトに参画する神戸大学 大学院医学研究科 教授の内匠透氏は、外敵接近などを映像によってマウスに見せ、他のマウスがその様子を見て共感をおぼえる状況を作り出す。マウスが共感する際にどのように脳が働くかを研究する。

 感情推定が日常的に使える段階になれば、個人が自分の心の状態を把握できる。これまで医療機関で「うつ病」と診断されなければ治療の対象にならなかった現状を変えられるかもしれない。感情推定の結果に基づき、必要に応じて支援サービスを活用できるようになるからである。

感情推定技術は既に実用化

 実のところ、感情推定/操作技術はもはやSFではない。ヒトの脈拍や脳波を接触/非接触的に計測するセンサーは既に実用化しつつある。

 例えば現状でも、スマートウオッチのようなウエアラブルデバイスで脈拍を測れば、興奮度を推定できる。三菱電機は2022年11月、感情推定(脈拍)センサーを搭載した家庭用エアコンを発表している。

 また、米Neurosky(ニューロスカイ)の「MindWave Mobile 2」のような非侵襲的に脳波を測定するデバイスが登場してきている。同製品はヘッドセットの先端に脳波を検知できる電極を搭載する。こうした例に続き、今後、小型かつ柔軟(フレキシブル)な高精度感情推定センサーが普及していくだろう。

 光で動物の脳細胞を操作し、行動や感情に干渉するオプトジェネティクス技術も研究が進む。2020年には、生理学研究所や東北大学大学院などが、同技術を使ってサルの手を動かす実験に成功している。光で活性化する物質であるチャネルロドプシンを脳細胞に導入し、光照射で手の運動を促した。

 ムーンショット目標9では、ウエアラブルデバイスやセンサーを使い、ヒトや動物の脳の働きを計測する。2027年に「心のやすらぎ」をもたらす技術などを試作し、幸福状態を可視化する「MS9幸福増進指標注2)」を提示。2032年に小規模実証し、2050年に技術の実用化を目指す計画である (図2)。

注2)なお、幸福増進指標は画一的な指標にせず、「あなたは何点です」と決めるようなものにはしないという。

図2 ムーンショット目標9のロードマップ
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図2 ムーンショット目標9のロードマップ
2050年の実現を目指す。一方で、脈拍センサーなどの感情推定技術は既に市場を広げている(写真:日経クロステック)