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 今から10年ほど前の2013年、筆者は六本木のダイニングバー「The Pink Cow」に入り浸っていた。多国籍の料理や酒を楽しむため……ではなく、そこに集う暗号資産(仮想通貨)Bitcoin(ビットコイン)ファンに話を聞くためだ。

 銀行を介さず自らデジタル通貨を管理し、店で決済できるBitcoinの可能性に、誰もが興奮していた。ブロックチェーンを使えば、銀行や国家から独立したDecentralized(非中心、非中央集権)なマネーを運営できる。そんな魅力に引かれていた。

 そして2022年。DeFi(分散型金融)やNFT(非代替性トークン)、DAO(分散型自律組織)などに代表される「Web 3.0(Web3)」のブームにおいても、やはり人々を引き付けたのは非中心という考え方だった。「Web 1.0やWeb 2.0は中央集権的だが、Web 3.0は非中心になる」といわれるようになった。

 とはいえ、1990年代のWeb黎明(れいめい)期を知る筆者としては、Web 1.0やWeb 2.0が中央集権的といわれると、どうにも違和感を覚えてしまう。

 1990年当時から非中心の考えはエンジニアを強く引き付け、インターネットの運営やWebの仕様に反映されていた。こうした経緯を振り返りつつ、なぜ非中心の考えが人々を引き付けるのか、Web 3.0は本当に一般社会へ普及するのか、改めて考えてみたい。

「非中心」と「分散」の違い

 ここで整理しておきたいのが、ITにおけるDecentralized(非中心)とDistributed(分散)の違いだ。技術者の間でも明確なコンセンサスはないが、この記事では便宜上、ざっと以下のような意味だと定義しておく。

分散:複数のリソースを連携させた情報処理。負荷軽減、耐障害につながる

非中心:権限とリソースが1つの主体に集中していない情報処理。分権、トラストレス、匿名性につながる。

 2つの違いとして重要なのは、非中心を実現するには分散型のシステムは不可欠だが、分散型のシステムは必ずしも非中心を保障しない点だ。

 仮に非中心の世界を目指して分散型のアーキテクチャーを採用しても、ネットワーク効果や資本の論理のため、ビジネス構造としては中央集権化することがある。

 HTMLとWebサーバー、Webブラウザーがもたらした1990年代のWeb 1.0は、コンテンツ流通の側面からいえば「配信者(メディア)の破壊」だった。新聞社や出版社、テレビ局といった大手メディアが配信手段を独占する中央集権的な構造が壊れ、あらゆる企業・組織がメディアになった。インターネットとWebという分散型のアーキテクチャーが、非中心の世界を実現してみせた。

 とはいえ、あらゆる組織が個別に情報を発信するようになれば、ユーザーは情報の海に溺れてしまう。そうした非中心の世界に「検索」という結節点を設けたのが米Google(グーグル)である。そこに資本が集中し、中央集権的な構造が生まれた。

 2000年代に始まったWeb 2.0は「編集者(エディター)の破壊」といえるだろう。ブログやトラックバックなどの仕組みが整備され、これまで消費の主体だった個人が自らコンテンツを発信できるようになった。

 とはいえ、ブログ配信用サーバーを立ち上げ、互いにトラックバックし合うというのは、ITに精通していない個人にはまだまだ荷が重い。そうしたニーズに応える形で、ブログを簡単に投稿できるブログサービスが登場。続いて、知り合い同士で書き込みを共有できるSNS(交流サイト)が台頭した。友達同士の関係を示すソーシャルグラフが結節点になり、米Facebook(フェイスブック、現メタ)などに資本が集中した。

*この頃登場したP to Pファイル共有ソフト「Winny」は、ギャビン・ウッド(Gavin Wood)氏が2014年に表明した「ポスト・スノーデン時代のWeb」としてのWeb 3.0の理念を一部先取りしたもので、特にWinny2が実装した匿名BBS(掲示板)はそうした色彩が濃い。ただWinnyの開発者に権限が集中している点で、「非中心」よりも「分散」の側面が強かったともいえる。

 Web 1.0、Web 2.0いずれも当初は非中心の理想を体現したものだったが、一般ユーザーによる受け入れの過程で、ユーザーのニーズを満たすため何らかの結節点が生まれ、中央集権的なビジネス構造が導入された。

 とすれば、現時点で非中心をうたうWeb 3.0においても、同様の歴史が繰り返される可能性は高い、と筆者は考える。

 広くユーザーと社会に受け入れてもらうには、「パスワードを忘れたユーザーを救済する」から「児童ポルノを削除する」まで、ユーザーのニーズや社会規範に沿ったきめ細かな対応も求められる。ただ、こうした例外処理はブロックチェーンが最も苦手とするところである。

 Web 3.0を標榜するスタートアップや投資家がうたう「GAFA支配からの脱却」というのは、GAFAが手掛けない領域でないと成功の余地がない、というビジネス上の都合も多分に含んでいる。多くの一般ユーザーにとって、非中心という理想はサービスの訴求ポイントにはなりにくい。

 Web 3.0にひかれるエンジニアの夢が「中央集権からの脱却」にとどまり、ユーザーニーズの追求がおそろかになれば、メジャーな存在になるのは難しいだろう。ブロックチェーンとひもづいたWeb 3.0という言葉はいずれ消失し、別の意味を持つ「Web 3.0」に取って代わられるかもしれない。