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 延べ6421万8770人――。これは、1970年の3月から9月まで開かれた大阪万博の総入場者数だ。2005年に開催された愛知万博の総入場者数、延べ約2200万人と比べると、3倍近くに上る。そして今年、大阪万博のシンボルである「太陽の塔」は、改修・増築工事を経て3月19日に一般公開を迎えた。この連載の1回目(3月19日)2回目(3月20日)では、完成後の様子を紹介した。3回目は、大阪万博当時の写真を中心に、ここまでで書き切れなかった太陽の塔の見どころをお伝えしたい。

1970年大阪万博当時の写真。会場ほぼ中央を「シンボルゾーン」が南北に貫いていた。写真奥には、広場を埋め尽くすように大勢の人がいるのが見える(出所:大阪府)
1970年大阪万博当時の写真。会場ほぼ中央を「シンボルゾーン」が南北に貫いていた。写真奥には、広場を埋め尽くすように大勢の人がいるのが見える(出所:大阪府)
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 1970年大阪万博で会場の中心となったのが、「シンボルゾーン」だ。シンボルゾーンは会場中央口の間近にあり、ほとんどの入場者は、このシンボルゾーンを通ってから、それぞれのパビリオンなどへと移動した。

 シンボルゾーンには、「太陽の塔」のほか、「大屋根」「お祭り広場」などで構成される「テーマ館」がつくられ、来場者に万博自体のテーマを伝える役割を担っていた。大阪万博の1日の入場者は、開幕直後こそ20万人台で推移していたが、徐々に増え続け、閉幕が近づいた9月5日には83万5832人を記録した。これだけの人数をどうやってさばいたのだろうか。

大阪万博当時の写真で、「太陽の塔」を見上げた様子。腕の先端に出口があり、来館者はそこから大屋根へと移動した(出所:大阪府)
大阪万博当時の写真で、「太陽の塔」を見上げた様子。腕の先端に出口があり、来館者はそこから大屋根へと移動した(出所:大阪府)
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来館者は、正面入り口からベルトに乗り、まずは地下に入る。地下は暗黒から始まり、来場者を「いのち」が生まれる空間へと導く流れだった(出所:大阪府)
来館者は、正面入り口からベルトに乗り、まずは地下に入る。地下は暗黒から始まり、来場者を「いのち」が生まれる空間へと導く流れだった(出所:大阪府)
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 その工夫とは、テーマ館内の複数のパビリオンは動線を連続させて、ほぼ一方通行で入場者を移動させたことだった。入場者は、まず太陽の塔の足元から地下に入る。そこで、地下展示を見て塔内に入り、エスカレーターで塔の上部へと運ばれる。そして塔の腕部分から出て、空中展示が行われている大屋根に移動。大屋根から下りエスカレーターで地上に降りるという流れだった。下りエスカレーターは「母の塔」と名付けられた作品と一体化しており、移動が1つのアトラクションのような体験だった。

太陽の塔を見下ろした様子。地下のエントランスや地上の広場、上空の大屋根で、大勢の人たちがひしめきあっている。写真左に見えるのが「母の塔」で、右は「青春の塔」(出所:大阪府)
太陽の塔を見下ろした様子。地下のエントランスや地上の広場、上空の大屋根で、大勢の人たちがひしめきあっている。写真左に見えるのが「母の塔」で、右は「青春の塔」(出所:大阪府)
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 今回の改修では、増築部を芝生の地下に設けたので、地下のエントランスから入る動線となっており、万博当時の動線の考え方を踏襲した。