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 2022年1月23日の午後1時半、都内の会館で開かれたお別れ会に自宅からPCを使って参加した。コンサート、講演、記者会見、取材、会議、勉強会、雑談会、飲み会にオンラインで参加した経験はあったがお別れ会は初めてだった。

 お別れ会と書いてしまったが正式名称は「松島克守先生に感謝する会」という。東京大学教授を経て、退官後は一般社団法人俯瞰工学研究所の所長(代表理事)を務めていた松島克守氏は2021年11月29日、急逝された。まだ76歳だった。会の趣旨は松島氏にゆかりのある方々が思い出と感謝を語ること。時節柄、会場に集まる方の人数を絞り、オンラインで中継した。会場に約70人、さらにオンラインを通じて200人強が集まった。

 日曜日の午後1時半から3時半、通常であると眠くなる時間帯だが、まったくそうならなかった。こう言ってよいのかどうか分からないが、すべての発言や挨拶が面白く示唆に富んでいた。職業病のせいかメモまでとり出し、充実した2時間を過ごした。

 面白かったのは多彩な方々が登壇されたことが大きい。東大における松島氏の恩師、寮の友人、教官になってからの同僚、指導した学生、日本IBMに勤めていたときの上司、企業経営者を含む社会人学生、俯瞰工学研やビジネスモデル学会の関係者などが次々に話をされた。

 筆者が松島氏にたびたび会い、話を聞いていたのは日本IBMに在籍されていたときであった。1991年から丸3年間、ひたすらIBMのことを調べる仕事をしていたが、その時期が記者としての最盛期であり、松島氏の名前を聞くとどうしてもIBMを思い浮かべてしまう。日本IBMからプライスウォーターハウス コンサルタントを経て、1999年に東大に戻られたとき、日経コンピュータのインタビュー欄に登場を願った(本記事の最後に再掲)。それ以降は日本IBM時代ほどには頻繁にお目にかからなかった。

俯瞰(ふかん)しつつ本質をつかみ、笑顔で毒舌

 「感謝する会」で次々に登壇された方々の話を聞いていると、東大に戻った直後のインタビューで語っていた通りのことを松島氏が実践し、成果を上げていたことが分かった。披露された数々の逸話には松島氏の人となりが分かる共通点があった。

 まず、物事を大きくとらえ、本質をつかむ人であったこと。松島氏は俯瞰工学を提唱した。目の前の問題だけではなく高いところから俯瞰して問題の本質を見いだす。工学と銘打った通り、実行できる解決策を考えて取り組んだ。

 東大総長を務めた吉川弘之氏は大学生のころから松島氏が「俯瞰(工学)を先取りするような発言をしていた」と語り、「色々な視点から俯瞰するとかえってぼけてしまいがちだが、松島君の場合、俯瞰(した結果)が焦点を結ぶ」と述べた。すなわち本質を明確に示せるということだ。

 これは20年以上も前に書いたインタビュー記事にも表れていた。冒頭で「なぜまた大学へ戻ったのですか」と聞くと松島氏がそれにはすぐ答えず「日本は第2の敗戦をした、今は戦後復興中」と言い出した。松島氏は世界を見渡し、日本の現状を総括し、それから大学へ戻った意図を説明してくれた。

 日本をなんとかしたいという思いはその後も一貫していた。その姿勢は、世界の中にある日本にはもっと、世界に貢献できることがあるという考えからきていたと思う。自分の目の前、つまり日本の中だけを見て日本を憂いたり誇ったりする論者とはまったく違っていた。

 インタビューの題名を『「知識を金に変える仕組み」を作る これがシステム部門の最重要任務』とした。今でも通じる本質的な発言である。「顧客や取引先に関する知識、製造に関するノウハウや情報、あるいはグローバルな金融ノウハウを金に変える」ことを松島氏は提言した。

 ただしこの最重要任務が果たされたとは言えない。インタビューで「復興には何年かかりますか」と聞いたところ、松島氏は「5年から10年で大丈夫じゃないかな」と答えていたがもう20年以上たってしまった。

 「感謝する会」では「にこにこしているが辛口」という発言がたびたび聞かれた。インタビューのときも同様だった。インタビューをしたのは7月で、話を終えてから写真撮影をお願いした。カメラマンの希望で外に出て撮ることになったが「こんなに暑いのに上着を着る? ありえない!」と文句を言いつつも応じてくれ、笑顔で写真に納まってくれた。

 一方でインタビューの最中には「日経コンピュータも大前提を踏まえて5Mの記事を書かないと、メーカーのお先棒を担ぐだけで終わる危険がありますよ」と痛烈な指摘をされた。5Mとは「知識を金に変える」マネジメントの仕組みを指す。