「ドーム公演のチケットが当たったのでミーティングの予定をお客さんに頼んで変えてもらいました」
「お客さんには何と言ったのですか」
「正直に伝えました。前からファンだと言っていましたから」
筆者の前に座っていた人とこんなやり取りをしたところ、右隣にいた人はうつむき、左隣にいた人は「お客さんからよほど信頼されているのですね」とつぶやいた。
顧客や同僚に正直に言えるか
右隣の人は知り合いだが正面と左隣の人には初めて会った。全員50代の会社員、全員が女性アイドル3人組の熱心なファンである。
場所は西武新宿駅の近くにあるロック&メタルバー。50代後半のマスターも同じ3人組の大ファンでドアや店内には3人組のシンボルである狐様(FOXGOD)のマスクが飾られている。
65インチのモニターには3人組の公演動画が流れ、それなりに大きな音が鳴り響く。少し離れた席におられた女性客がリクエストした「東京ドームの赤」の映像が流された。3人組は2016年、東京ドームで2日間公演した。初日が赤、翌日が黒と呼ばれている。
赤の動画が流れたとき、その公演に行った男性が顧客との打ち合わせ日を変更してもらったと語り始め、しばらくの間、その話になった。
当時10代の女性アイドル3人組の公演を見るために顧客の予定を変えさせるとはけしからん、と思われた読者がいるかもしれない。どうしても行きたかった彼の気持ちは分かるものの、いかがなものかという思いがこちらにもある。
実は筆者も大雨の中、東京ドーム公演に駆けつけたがそのことを同僚に言えなかった。以前書いたことだが、同僚10数人が絡む仕事を引き受けたものの作業が遅れ、同僚を待たせていたにも関わらず、東京ドームに行ってしまった。
「作業が遅れて申し訳ない。さらに申し訳ないが、どうしても3人組アイドルに会いたいので今晩、東京ドームに行く。作業は明日から再開する」
こう言うべきであったのか。いや、それは無理だ。
役員が客先常駐をしてよいか
右隣の知人がうつむいたのはなぜか。彼はIT企業の役員だが、あるプロジェクトの陣頭指揮をとるため、少し前から客先に常駐している。悪く言えば囚われの身であり、顧客訪問の予定を変えるどころではない。
もっとも客先への常駐は彼自身が決めたことだ。すでに客先にいる部下の様子を見て相談に乗り、しかるべき手を打つ。必要があれば顧客とすぐに打ち合わせる。
3人組は世界征服のために5月から米国で、6月から欧州で公演ツアーをする。したがって幸か不幸か今年前半、日本公演はまず行われない。とはいえ万一日本公演があったらどうするか。
客先に出勤していながら「今晩、女性アイドルの公演に行くので少し早めに失礼します」と顧客や部下に言えるのか。そうしたことが頭をよぎり、下を向いてしまったらしい。
顧客のため、そして部下のために客先常駐を決めたこの役員に共感する読者はいるのではないか。「役員が現場に来ても邪魔になるだけ」と思った読者がいるかもしれないが、彼はプログラマーから社会人のキャリアを始めた叩き上げである。そのことは以前書いた。