「その質問は的外れだよ。なぜなら天才と呼べるのはただ一人、ジョン・フォン・ノイマンだけだからだ」。ハンガリー出身でノーベル物理学賞を1963年に受賞したユージン・ウィグナーは「なぜ当時のブダペストにこれほど多くの天才が出現したのか」と問われてこう答えたという。『フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔』(高橋昌一郎著、講談社現代新書)で紹介されている発言である。
著者の高橋氏はノイマンについて「二十世紀を代表する天才のなかでも、ひときわ光彩を放っている」「二十世紀に進展した科学理論のどの研究分野を遡っても、いずれどこかで必ず何らかの先駆者として『ノイマン』の導いた業績に遭遇する」と書いている。
日経クロステックの読者であればプログラム内蔵方式やゲーム理論におけるノイマンの功績はご存じだろう。もっとも「ノイマン型」と呼ばない方がよいとする意見もある。
書名に「フォン・ノイマンの哲学」とあるが、ここでいう哲学は「いかに世界を認識し、どのような価値を重視し、いかなる道徳基準に従って行動していたのか」といったことを指す。それらを一言で表したのが副題に付けられた「人間のフリをした悪魔」である。
新聞広告に「人間のフリをした悪魔」と大きく出ていたのでぎょっとし、すぐ書店に行って本を買った。高橋氏は次のように書いている。
「要するに、ノイマンの思想の根底にあるのは、科学で可能なことは徹底的に突き詰めるべきだという『科学優先主義』、目的のためならどんな非人道的兵器でも許されるという『非人道主義』、そして、この世界には普遍的な責任や道徳など存在しないという一種の『虚無主義』である」
これらの主義を貫いたノイマンは「人間のフリをした悪魔」だったという主張だ。しかし同書を通読しても「ノイマンの思想の根底」に3種類の「主義」があったとは到底思えなかった。
歴史を変える力を持つ怪物を作る
まず「科学優先主義」についてである。高橋氏はノイマンがゲーデルの数学的実在論を批判し「あらゆる人間の経験から切り離したところに、数学的厳密性という絶対的な概念が不動の前提として存在するとは、とても考えられない」と断言したことを紹介している。
数学の限界についての見解ではあるが、論理が絶対的なものではないとノイマンは考えていたことが分かる。科学は論理に基づく。ノイマンは科学で解決できない領域があることを知っていたことになる。
もっとも科学優先主義は「科学で可能なことは徹底的に突き詰めるべきだ」とする姿勢とされているので、科学で不可能なことがあると知っていても科学優先主義はとれるのかもしれない。
科学優先主義を示す例として、高橋氏は1945年にロスアラモスからプリンストンの自宅に戻ったノイマンが12時間も眠り続け、夜中に目を覚ました後、異様な早口で夫人に語りかけたという逸話を挙げる。同じ逸話が『チューリングの大聖堂 コンピュータの創造とデジタル世界の到来』(ジョージ・ダイソン著、吉田三知世訳、早川書房)の中に紹介されているのでそちらから引用する。
「われわれが今作っているのは怪物で、それは歴史を変える力を持っているんだ、歴史と呼べるものがあとに残るとしての話だが。しかし、やり通さないわけにはいかない。軍事的な理由だけにしてもね。だが、科学者の立場からしても、科学的に可能だとわかっていることをやらないのは、倫理に反するんだ、その結果どんなに恐ろしいことになるとしてもね。そして、これはほんの始まりに過ぎないんだ!」
この前にノイマンはロスアラモスの国立研究所にいた。そこでは原子爆弾の開発が進められており、ノイマンは原爆の振る舞いを予測するモデルの作成と技術計算に関与した。
ノイマンのこの発言を高橋氏は「ちょうどノイマンの担当する『爆縮』設計が完了した頃の出来事である。彼は、最終的に原爆が完成すると何が起こるかを予見して、自分の行動を正当化しているように映る」と批判的にみている。
ノイマンは原爆に続き、水爆の開発にも関わった。「どんなに恐ろしいことになる」としても「科学的に可能だとわかっていること」なら進める科学優先主義に加え、原水爆という「非人道的兵器でも許される」とする非人道主義がノイマンの「哲学」だと高橋氏は問題視する。