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言葉にすがると自分を見失う

 ところが、実際にはそうなっていない。ここで冒頭の一文が出てくる。

 「近代日本の歩みはすべて才能扼殺の上に築かれてきた。それは西洋の理想と日本の現實との間の隙間があまりにも大きかったからである。それが大きすぎたので私たちはそれを埋める意欲や實行よりも、それが埋まらぬ理由發見に、すなはち言葉にすがり、言葉をもてあそぶことに僅かに慰めを見出してきた」。

 確かに西洋で生まれ育ったITを日本は常に後追いしてきた。だが言葉にすがるとはどういう意味か。

 「仕事がうまく行かないと、まづその理由を考へる。(中略)理想と現實との間の隙間を埋めることができる言葉を見つけようとする」。

 多重下請け構造があるから理想的な仕事ができない。日本のユーザー企業にITのプロがおらず素人が発注し、管理するからプロジェクトが迷走する。「多重下請け構造」「発注者がIT素人」という言葉はしばしば見聞きする。

 他人事のように書いたが、似た話を筆者は長年にわたって書いてきたし、「理想と現實との間の隙間を埋めることができる言葉」として「西暦2007年問題」を喧伝したりした。

 だが、言葉にすがることには危険があると福田氏は警告し、2つの危険を述べている。

 「その言葉さへ見つけられれば、隙間が埋つたやうな錯覺をいだく」。

 「一度さういふ目やすとしてある言葉が固定してしまふと、そのあとで、現實がどう變わろうと、また隙間がどう變わろうと、固定した言葉に捉はれて肝腎の現實が見えなくなってしまふ」。

 「多重下請け構造」あるいは「発注者がIT素人」だからといって「隙間が埋つたやうな錯覺」は抱かないだろうが「仕方がない」と諦めてしまったら、やはりそれは1つの錯覚である。顧客側にITのプロが入り、多重下請け構造を排し、「才能」がある少数精鋭と付き合う例も出てきている。

 多重下請け構造には問題がある。だが現状の構造を批判し、理想の構造を唱えたところでそれだけで構造が変わるわけではない。発注者がITのプロであることは理想かもしれないが、そう指摘すればプロの発注者が増えるわけではない。

 しかも多重下請け構造やITの素人問題を批判していると肝心要の自分を蚊帳の外に置いてしまう。あるいは、業界がそうなのだから受注者としては従うしかない、と諦めてしまう。

 「私たちはそれを『才能』の問題として考へず、一途に理想や良心や誠實の問題として考へ、その立場から現實規定を行ふのをつねとしてきた。(中略)さうして『才能』を問題の外に置くことが、また、『才能』を育てぬ傾向を、さらにはそれを殺す傾向を助長してきたのである」。

 多重下請け構造があろうが、発注者がITの素人だろうが、お構いなしに仕事をやってのける才能が期待されるべきなのに、そうならなくなってしまう。そういう才能がある人がいたとしても周囲が協力せず、才能のある人の居場所が無くなっていく。

 厳しい言い方をすると、才能が無くても、これでよいのか、と悩む良心を持ち、それでも仕事だからやり抜こう、という真面目な人のほうを日本のIT産業は評価してきた。「できる人に機会を与えれば、自分でできるようになる。できない人にいくら懇切丁寧に教えても、できる人にはならない」などと、才能に関わる真実を公言することは歓迎されない。

ITの仕事は言葉を操る仕事

 理想が遠すぎるとしても、何とかそれに近づこうとする「意欲や實行」と「才能」を重んじ、「言葉をもてあそぶ」ことを避ける。これが結論なのだが、まだ厄介な問題がある。

 60年前のテレビ・ラジオといった「新しい企業(中略)は言葉にかかはる」と福田氏は指摘し、次のように書いた。

 「言葉を操るのもまた才能である。しかも、それは機械工業や製靴や製本と同じく、南蠻渡来のものなのである。同じくではない、私たち日本人にとつては、それらと較べものにならぬくらゐ異質の才能に屬する。したがつて、西洋の文化、文明を同化するといふ大事業のうち、言葉を操る仕事がもっとも遲れてゐる」。

 ITもインターネットも「言葉を操る仕事」に入る。怒濤(どとう)のように押し寄せるIT用語を理解し、「自分のものにする」。顧客の中ですら意味が統一されていない業務用語を聞き取り、整理し、システムの要件を何とか定義する。

 日本語を使っているとしても、こうした仕事は「南蠻渡来のもの」であり、「もっとも遲れてゐる」。それでも才能を見いだし、作ることを続けなければならない。