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 絵は苦手である。うまく描けない。美術館で絵を眺めても感銘をあまり受けない。誘われて『ゲルハルト・リヒター展』に行ったが何が何だかさっぱり分からなかった。

 不思議なことに子供の頃は絵が得意で好きだった。幼稚園のときか、小学校低学年のときか、50年以上前なので記憶が曖昧だが、自分が描いた風景画で当時住んでいた地方都市から市長賞を頂戴した。

 その絵は額に入れ、実家に飾ってあるため、今でも時々目にする。確かになかなかだと思うし、自分で描いたという自覚もある。ところが地方都市から東京都へ引っ越しした途端、親から「一体どうしたのか」と聞かれたほど絵が下手になった。そもそも描いていて楽しくない。理由は不明である。

 文章を書く仕事に就いたため絵が下手でも困らなかった。こう書きたいが少々困った。雑誌の記者になったので特集記事などに「仕掛け」が必要になる。仕掛けとは図や写真、あるいは表のことだ。特集を書く場合、デスクと呼ばれる先輩に原稿の流れを書いたメモ(スケルトンという)と仕掛けを執筆前に提出する。「何か図はないのか。文と表だけでは読んでもらえない」「なんだ、このポンチ絵は。購読料を払っている読者に見せられない」などと、しばしば叱られた。

 ここ数年、絵が大事だという発言を見聞きすることが増えた。例えば「イノベーションのためにはアート思考が重要」といった指摘である。「××思考」と言われたときには疑ってかかるようにしているが、信頼する知人から「大きな仕事を始める前に美術館へ行くといい」あるいは「文字の本ばかりではなく絵本を楽しんではどうか」と勧められると、そうかもしれないとは思う。

 アート思考が登場したのは理詰めだけではイノベーションが生まれないからだろう。ビジョンとか全体像とか「ありたい姿」とか「To Be」とか、自分でも原稿の中でたびたび触れてきた。ただし「まずビジョンがないといけない」と文で書くのは簡単だが、ビジョンをどう描くのかとなると難しい。

 アート思考に関する情報をインターネットで調べてみると、フレームワークや手法が提案されていた。実践したわけではないので安易に批判できないが、フレームワークや手法に沿うと、どうしても何か答えを出したくなり、アートという言葉で期待されている結果にならないのではないかとも感じる。

 絵の描き方を習うこと自体は悪くないが、それだけで良い絵が描けるわけではない。フレームワークに沿って「ここではこのように想像してください」と言われて、斬新な発想が出てくるとは限らない。

迷子になる絵日記を描いてみた

 やはり絵は絵として描いてみる。あるいは絵は絵として観賞してみる。それで自分に何かが起きればよいし、起きなかったら仕方がない。「いいアイデアを出すヒントにしよう」といった下心があると大した絵は描けないし、優れた絵を見ても感動しない。

 たまたま絵を描いたり、観賞したりする機会が最近2度ほどあった。第1は絵日記である。『迷子になる地図』という題名が付けられた絵日記帳を入手したので、夏休みが終わった時期に描いてみた。

 絵日記帳はインターブリッジグループ(ibg)というコンサルティング会社がつくったものだ。そこに書かれている文章の編集を少し手伝ったため、完成した絵日記帳を送ってもらえた。

 絵日記帳なので上段に絵を描き、下段に文や追加の絵を描く。何のために絵日記を描くのかというと、未来に向かってどうしたらよいか「ビジョンとか全体像とか『ありたい姿』」を見いだすためである。

 将来を構想するために「人間と自然」「個と公」など6つの視点が示され、各視点から「物事を眺め、検討し、見えたこと・考えたことをまとめていく」。こう紹介するといかにもコンサルティング会社が作ったフレームワークのように受け止められそうだが、『迷子になる地図』と銘打っている通り、コンサルティング色、フレームワーク色を極力消す配慮がなされている。

 上段に描く絵は何でもよい。今抱えている問題でもいいし、たまたまニュース記事で見かけて気になったことでもいい。それを描いてから、下段の両脇にある6つの視点を表現した小さな絵を見ながら、例えば「この問題における個と公とは何だろう」と思いを巡らせ、気が付いたこと、感じたことを下段にメモしていく。

 6つの視点をibgは羅針盤と称し、「初めは羅針盤の針が回るばかりで迷子になりますが、次第によりよい未来を切り開くひらめきが浮かんでくるはずです」と説明している。

 早速描いてみた。絵がひどいが上段と下段を合わせて5分程度で描いたので大目に見てほしい。

「迷子になる地図」の上段
「迷子になる地図」の上段
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 上段には多くの日本の組織の将来(右)と現状(左)を描いた。本来は組織内外に色々な人がいて、何らかの目的に向かってそれぞれの役割を果たすことが望ましい。ところが現状では、各組織の文化に染まっているため一人ひとりは結構同じ考え方や動き方をしているわりに、それぞれが自分の思い込みや所属先に閉じ込められており、ばらばらの動きをしている。

「迷子になる地図」の下段
「迷子になる地図」の下段
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 上段を見ながらあれこれ考えて記したのが下段である。左端に記されている印は上から順に「人間と自然」「個と公」「文明と文化」という視点を示す。

 個、私人としての自分と、公、組織人あるいは社会人としての自分の役割と責任がもやもやしているところに問題があるのではないか。そのことを下段の左側に書いた。

 一方、右端に示された視点は上から順に「学び」「対話」「デジタル」である。「仕事から学ぶ」と当たり前のことを書いているが、「1日のかなりの時間を費やす仕事の場においても何かを学び続けないとたこつぼにいることを忘れてしまう」と言いたかった。

 組織の中にいるとどうしてもほぼ決まった相手とばかり話を、しかも仕事に関する話だけをしてしまう。本来の「対話」を重ねるには何らかの場所を設け、良い意味での強制が必要ではないか。

 最後に思い浮かんだことを中央に描いたが、現実的な解決策でつまらないので説明を控える。つまり「よりよい未来を切り開くひらめき」は訪れなかった。おそらく迷子へのなり方が不十分なのだろう。出口から早く外へ出たい、と考える習慣は悪い意味でなかなか強い。