「10月の件、どうでした。当たりましたか」
開口一番、彼はこう言った。ほぼ初対面の人にいきなり聞かれたため、一瞬絶句した。
彼は同僚と呼べる人だが一回も話をしたことがない。正確に書くと彼が話をするところを一度だけ見た。ある定例会議に出席したところ彼がいて発言していた。こちらは何も話さす、それ以降その会議に一切出ていない。「ほぼ初対面」とはそういう意味である。
同じ会社に長年勤めてきたものの顔と名前が一致しない相手は少なからずいる。同じ雑誌の編集部あるいは何かの委員会で一緒にならない限り、話をする機会はまずない。
仕事の話か、それとも
「10月の件、どうでした」と言われ、仕事の進捗を聞かれたと思い、答えに窮した。非常に重要な仕事を請け負っており、その成果を世に問う期日は10月上旬なのだが、順調に進んでいるとは言えない。
最重要の仕事に専念すべきだが色々な事情から別な仕事も抱えており、総崩れの状態に陥る危険がある。企業の情報化に例えれば、基幹系の更新時期が近づいているのに深層学習の利用や端末操作自動化の案件も引き受け、どれもこれも進んでいない状況に近い。深層学習とはAI、端末操作自動化とはRPAのつもりだが、その言葉を使いたくないと先日書いたので言い換えてみた。
「当たったか」と聞かれると大変有り難いことに当たった。10月が期日の重要な仕事は例年手掛けており今年が3回目になる。お陰様で過去2回、いずれも成功を収めた。1回目に成功した後、「翌年は休みましょう」と当時の上長に提案したが却下された。上長の判断は正しく2回目も成功した。こうなると「来年こそ休みましょう」と言いたいが言えない。しかも社内のあちこちから「3回目はこうしたら」と、役立つ助言のような、逆らえない命令のような声がかかってくる。
仕事の件で頭が一杯で以上のことを一瞬のうちに考えつつ、彼の顔を眺めた。どうも仕事の話を聞きたい様子ではない。彼の問いを縮めて復唱してみた。「10月の件、当たりましたか」。例の件か。果たしてそうか。周りの人に聞こえないように小声で彼に尋ねた。
「メイトさんですか」
彼は大きくうなずいた。そうなると答えざるを得ない。
「当たりました。10月の初日1日だけですが」
「羨ましい。僕は全部落ちました」
長老は貢献を続けているか
本稿の題名、「長老が失いかねないが10代女性が持っているもの」に沿った話になかなかならないが、ここから10代女性の話になり、もう少しして長老の話になるはずである。
題名の意図を説明する。日経 xTECH読者の皆様は情報、電機、自動車、建築、土木といった分野の研究者、設計者、開発者、製造担当者、保守技術者、企画者、販売担当者、経営者など多岐にわたる。どの産業界でもどの業務分野でも「長老」がいるはずだが、そうした人々は産業界や業務分野に引き続き貢献しているだろうか。ひょっとすると貢献ではなく、その反対の影響をもたらしていないだろうか。
ほぼ初対面の同僚との対話に戻る。「メイトさんですか」という問いに出てくる「メイト」とは、20才、19才、19才の女性3人組を応援する人々の総称である。愛好者にだけ通じる隠語を使うのは嫌なので口に出したことはほとんどなく、3人組について何度か本欄に書いた時にも使わなかったが、彼との対話においては成り行き上、使わざるを得なかった。
女性3人組は2018年10月に、ほぼ1年ぶりの日本公演を開く。公演は関東で2回、関西で2回予定されているがいずれも大会場ではなく、切符を入手できるかどうかが世界の応援者にとって重大かつ切実な問題になっていた。
切符の予約受付は年会費のようなものを払っている応援者に対してまず実施され、その後で一般受付に至る。「年会費のようなもの」と書いたのは毎年、3人組の所属事務所に一定額を支払うからだが、切符の先行予約受付に応募する権利と数万円する映像作品限定版を購入する権利が得られ、使い道がほとんどない手拭いや衣服が送られてくるだけで、それ以外の特典はない。何もない。
しかも年会費のようなものを払い続けている応援者の間で抽選になるため、切符が当たるかどうかは分からない。当選落選の連絡が事務所からあった日に、「10月の件どうでした。当たりましたか」「当たりました。1日だけですが」「全部落ちました」といった対話が全国、いや、全世界の応援者の間で頻繁に交わされることになる。