土井たか子氏が日本社会党(現社会民主党)の委員長に就任し、憲政史上初の女性党首に選ばれた1986年。IT業界では米マイクロソフトと日本の大手ソフト会社だったアスキー(当時)の確執が話題を集めた。
きっかけはマイクロソフトが米ナスダックへの上場を機に日本法人の設立を計画したことだ。当初は国内販売代理店を務めていたアスキーに子会社になるよう持ちかけたが、アスキーは申し出を拒んだ。マイクロソフトはアスキーとの販売代理店契約を解消し、完全子会社の日本法人(現日本マイクロソフト)を設立。5月に営業を始めた。
パソコンブームが追い風に
アスキーはこの8年前の1978年にマイクロソフトの国内販売代理店となった。CUI(キャラクター・ユーザー・インターフェース)ベースのパソコン用OS「MS-DOS」やプログラミング言語「BASIC」、表計算ソフト「Multiplan」などを販売していた。
アスキーの創業は1977年で、ソフトウエア開発や雑誌の出版などを手掛けてきた。マイクロソフトとの提携は西和彦副社長(当時)がビル・ゲイツ氏に働きかけて実現したとされる。両社の関係は親密で、西氏はマイクロソフトの副社長も務めた。
パソコンブームを迎え、MS-DOSがOSにおけるデファクトスタンダードの座を築くとともに、アスキーは成長を遂げた。だが、マイクロソフトからの「子会社になってほしい」との依頼には首を縦に振らなかった。西氏は日経コンピュータの取材に対し、「子会社になれば自由なソフト開発が難しくなる」と理由を説明した。
アスキーはマイクロソフト製品の売り上げを失っただけでなく、人材の流出を招いた。マイクロソフト日本法人の初代社長に就いたのはアスキーの取締役だった古川亨氏だ。古川氏は1991年まで社長を務め、Windowsの黎明期を支えた。