2002年(平成14年)。日本興業、第一勧業、富士の旧3行が合併し、みずほ銀行が生まれた初日に大規模なシステム障害が起きた。ITの失策が経営問題にまで発展する契機となった。

サッカーのワールドカップ(W杯)日韓大会で日本中が熱狂に包まれた2002年。日本代表が決勝トーナメントに初めて進出し、サッカー史にその名を刻んだこの年、今後を左右する出来事が産業界でも起こった。
代表例が鉄鋼業界だ。日本鋼管(NKK)と川崎製鉄が9月に経営統合し、JFEホールディングスが誕生した。仏ルノーから日産自動車に乗り込んだカルロス・ゴーン最高執行責任者(当時)は「日産リバイバル・プラン(NRP)」を発表、取引する部品や資材メーカーの半減などを打ち出していた。これがJFE誕生の引き金となった。
もう1つの出来事が金融業界だ。日本興業、第一勧業、富士の3行が4月に統合・再編、みずほ銀行とみずほコーポレート銀行が生まれた。その船出は大荒れだった。統合初日の4月1日に大規模なシステム障害を起こしたからだ。社会インフラともいえるメガバンクの勘定系システムが1カ月ほどにわたり正常に運用できなくなる前例のない事態を招いた。
つぎはぎのままシステム統合
3行が統合を発表したのは2年半以上前の1999年8月20日のことだ。同年12月22日に経営統合に伴う新たなグループ名を「みずほフィナンシャルグループ」とすると正式発表し、情報システムの統合方針を明らかにした。
統合方針は最も規模が大きい勘定系システムについて、個人・中小企業向け取引を手がけるみずほ銀は第一勧銀のシステム(富士通製ハードウエアで稼働)、大企業向け取引を担当するみずほコーポレート銀は興銀のシステム(日立製作所製ハードで稼働)に集約するというものだった。