戦後よりも戦前の建物が大切にされる不可思議
筆者は、1999年ごろから東京駅の赤レンガ駅舎(丸の内駅舎)が復元されるかもしれない、という話題を取材していた。空襲で焼失した3階部分を復元するため、赤レンガ上部の余っている「空中権」を隣接地に移転。その売却費用によって復元工事を実施するという事業スキームがまとまった。この話題は「誰もが興味津々」という感じで前のめりで話を聞いてくれた。
その一方で、戦後のモダニズム建築はあっさりと壊される。例えば、東京駅からさほど遠くない八重洲1丁目にあった「旧日本相互銀行本店」は2008年、ほとんど話題にならずに取り壊された。この建物は戦後の日本建築界をリードした前川國男(1905~86年)が設計したもので、1952年度の日本建築学会賞も受賞している。
赤レンガ駅舎は、明治の建築家・辰野金吾(1854~1919年)の設計で1914年に完成した。辰野は教科書にも登場するような有名な建築家だし、何といっても赤レンガ駅舎は東京・丸の内のシンボル。老朽化したから、これを改修して命を延ばそうというのは正しい決断だ。実際、2012年に復元工事が完了し、今も多くの観光客を集めている。
しかし、1952年に完成した旧日本相互銀行本店も建築的な意義ではこれに負けてはいない。この建物はアルミサッシやプレキャストコンクリートパネルといった、現代のオフィスビルに使われている技術を先駆的に取り入れた“戦後オフィスのシンボル”なのだ。にもかかわらず、その解体はほとんど話題にならなかった。
物理的にはまだ使えたとしても、経済的な意味での寿命が終わったのだ、という答えもあるだろう。しかし、筆者にはそれだけではないように思えた。経済的な寿命が終わると建物が壊されるならば、戦前の建物だって同じように壊されるはず。日本人は戦後建築に冷たい。不公平だ──。
そう考えた筆者は、戦後のモダニズム建築を、得意のイラストでリポートする連載を編集会議で提案した。今考えると不思議だが、建築の絵などほとんど描いたことがなかったのに、この頃はかなり建築好きになっていたので「好きな建築ならば描ける」という根拠のない自信があった。
当初は写真も文章も1人でやるつもりだった。企画が通り、さあどの建築から始めようかとラインアップを考えていたとき、建築ジャーナリストの磯達雄氏に(一杯飲みながら)相談してみた。磯氏は日経アーキテクチュアのOBで、つまり宮沢の先輩記者だ。
磯氏は「戦後建築はあっさりと壊される」という問題意識に共感を示し、「一緒にやろう」と言ってくれた。その提案は「渡りに船」で、さすがに「イラスト、写真、文章を1人でやり続けられるのか」と不安に感じていた筆者は、「ぜひ一緒に」と写真・文章を磯氏に押し付けて連載は2005年1月からスタートした。
連載は好評で、モダニズム編(1945~1975年竣工)→ポストモダン編(1975~1995年竣工)と進んだあと、いったん時代を戻り、古建築編(古代~江戸)→プレモダン編(明治・大正・昭和)と続く。スタート当初は平記者で、まさか自分が編集長になるまで続く(なっても続く)とは思っていなかった。
大正時代の「日本基督教団大阪教会」で連載は100回を超えた。連載は現在も続いている。既刊の6冊の書籍には「寄り道」として連載以外の書き下ろしも収録しているので、取り上げた建築は200件近い。