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日経アーキテクチュアの人気連載をベースにした書籍「プレモダン建築巡礼」が4月23日に発売になりました。同書の中からいくつかの記事をより抜いてご覧いただきます。今回は井上章一氏(国際日本文化研究センター教授)と磯達雄氏(建築ジャーナリスト)による対談の最終回です。

その1その2から読む。

08+09 渡辺節、安井武雄 
金に糸目を付けない 大阪経済人の後ろ盾

渡辺仁で7人になりました。あと3人です。

 大阪の建築家も挙げておきたいので、渡辺節(1884~1967年)と安井武雄(1884~1955年)はどうでしょうか。あの時代の大阪の街なかの建築って、すごくレベルが高かったと思うんです。

井上 おっしゃる通りですね。渡辺節の綿業会館(1931年)は、外から見ると今は地味に見えるけれど、中に入るとすごい。大日本帝国時代は、経済指標だけを見ると、大阪は東京に負けていないですね。特に関東大震災以降は東京以上だった。

渡辺節が設計した綿業会館(1931年)のエントランスホール
渡辺節が設計した綿業会館(1931年)のエントランスホール
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 大阪のブルジョアジーたちが建築家を育てた部分があると思います。渡辺節もそうだと思うし、辰野金吾が大阪に事務所を持ったのも、そういう背景があったからでしょう。

知っておくべき10人 08
渡辺節(Setsu Watanabe)

大阪で花開いた「売れる設計」

1884(明治17)年~1967(昭和42)年(イラスト:宮沢 洋)
1884(明治17)年~1967(昭和42)年(イラスト:宮沢 洋)

11月3日の天長節(明治天皇の誕生日)に生まれたので節と名付けられた。東京帝国大学の建築学科を出た後、韓国政府度支部に勤め、釜山や仁川の税関庁舎を設計する。鉄道院に移ると、京都駅の設計を担当した。1916年に独立して開設した渡辺建築事務所は、大阪における民間設計事務所の草分けとされる。そこで手掛けた商船三井ビルディングや日本勧業銀行本店は、堂々たるルネサンス風の様式建築。また大阪ビルディング東京支店などでは、欧米建築の視察経験を生かし、装飾性にオフィスビルとしての実用性も重ね合わせている。村野藤吾もこの事務所の出身。師からもらった忘れがたい言葉は「売れる設計をしてくれ」だったという。

知っておくべき10人 09
安井武雄(Takeo Yasui)

「自由様式」の極意

1884(明治17)年~1955(昭和30)年(イラスト:宮沢 洋)
1884(明治17)年~1955(昭和30)年(イラスト:宮沢 洋)

東京帝国大学を卒業して南満洲鉄道工務課へ。その後、大阪の片岡建築事務所に移ると、米国へ派遣されニューヨークの建築設計事務所でも勤務した。帰国して40歳で安井武雄建築事務所を開設、大阪倶楽部、高麗橋野村ビル、日本橋野村ビルなどの設計を手掛ける。その作品は、マヤ風や東洋風のデザインが取り入れられた独自のもの。自邸では新興のモダニズムに接近している。旧来の様式にとらわれない作風を、自ら「自由様式」と称した。その集大成となったのが大阪ガスビルディングである。設計事務所の活動は太平洋戦争で中断するが、1951年に安井建築設計事務所として再開、没後も後継者によって現在まで続いている。

 大阪には民間の建築の仕事がたくさんあった。建築家とクライアントの、すごくうらやましい関係が、あの時代の大阪にはあったんだなという感じがします。

井上 要するに、金に糸目を付けなかった(笑)。坪単価がどうのとか、レンタブル比がどうのとか、そういうみみっちいことにこだわりを示さなかったんだと思いますね。

 安井武雄の大阪ガスビルディング(1933年)は今見てもかっこいいですよね。

安井武雄が設計した大阪ガスビルディング(1933年)
安井武雄が設計した大阪ガスビルディング(1933年)
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井上 ガスビルがモダンデザインでかっこいいというのはね、建築業界を超えて素人筋にも了解されていると思う。吉田鉄郎の中央郵便局のひいき筋には会ったことがないけれど、ガスビルかっこいいという話はよく聞きます。

 だからモダンデザインが人民の心をそそらないというわけでは全然ないですよ。吉田鉄郎には向いていなかっただけかなと(笑)。

 ガスビルは、都市のなかの建築のつくり方として、アーケードを設けるとか、アーケードの下にガラスブロックの床があってそこから地下に光が入るとか、すごくよくできているので、今見てもいいと感じるんでしょうね。

 そして、そういう大阪の民間主導の建築づくりの文化から、村野藤吾(1891~1984年)という、またすごい建築家が出てきます。

井上 そう、村野藤吾については私も少し言いたい。

では10人目は村野藤吾にしましょう。