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 正月休みに「えんとつ町のプペル」という映画を見た。奇才・西野亮廣氏の同名絵本を映画化したものである。絶賛と酷評がこれほど極端に分かれる映画も珍しい、との前評判。

煙に覆われた「えんとつ町」。そこでは誰一人として「空」や「星」を見たことがない。
当局がその存在すら否定する中で、主人公の少年ルビッチとゴミでできた「ゴミ人間」プペルは、「星」の存在を確信し、それを人々に見せるための大仕掛けをする……

鮫島 正洋
鮫島 正洋
内田・鮫島法律事務所 代表パートナー 弁護士・弁理士
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 こんなに単純ではないのだが、ネタバレはご法度なのでこの程度にしておく。

 ルビッチは大仕掛けの最後にこう叫ぶ。

「確かに、煙の向こうに空や星があることは誰も見たことがない。でも、空や星がない、ということも誰も見たことがないじゃないか。それなのに、なぜ、みんな『空も星もない』と言うんだ。煙の向こうを見てみなければ分からないじゃないか」*1

*1 当職の記憶の限りであり、正確ではない。

 「異端と罵られてもいいから、『空』があり、『星』が輝いているという真実を主張しろ」なのか、「世の常識には大いなる非真実が紛れ込んでいる。疑ってかかれ」なのか、「体制に従わずに戦え。世の中を変えろ」なのか。メッセージとして何を受け取るのかは、受け手の感性や人生経験、生きざまによるだろう。もちろん、受け手によってはこれらのメッセージを受け取ることなく、「ストーリーが単純なウザい映画」という評価になる可能性もある。それが、絶賛と酷評が入り交じる理由であろう。

 ちなみに、罵られはしなかったが、筆者も当業界ではどちらかというと異端で、ほぼ同じような行動態様で生きてきたので、この映画には共感度が大きい。「絶賛」に一票を入れる。

 この映画を製作した西野氏は、そもそも万人受けなど狙ってはいないはずである。それは、同氏の『革命のファンファーレ』(幻冬舎)という著書を読めばすぐに分かる。映画に限らず、全ての主張や信念とは本来そういうものであるはずだ。万人受けする主張など存在せず、もし、そういうものがあるとしたら、その主張にはどこか無理がある。現実性に乏しいということであろう*2

*2 「消費税をなくせ」という主張は万人受けするだろうが、日本の財政を考えると医療福祉など他の分野に大きなツケを回すことになり、全く非現実的である。そこで、「消費税をなくせ。その代わり、○○費をゼロにしろ」という主張で現実性を担保すれば、反対意見が生まれることは必至であるから「万人受けしている」とはいえない。

 なぜ絶賛と酷評が入り交じるのか。さらに考察してみよう。

 まず、この映画は原作が絵本であることから入り口は平易で幼児向けを装うが、その内実は上述のような高次元の社会的メッセージを発している。この「ギャップ」を知らずに単純に入ってしまうと、「全然、面白くない」「期待外れ」ということになりかねない。

 次に、日本人に2つの“人種”、すなわち保守派と革新派が存在するという事実。自己が身を置く世界にさまざまな課題が存在することを認識しつつも、これを変えようとしない前者のタイプと、見いだした課題を解決すべく行動を起こす後者のタイプとが、激しく拮抗する時代となった。当人の人格や行動様式の問題でもあるが、コスト・リターンという経営的な側面でも語れるのだと思う。

 高度成長期の頃は、国家・社会が成長し続けていたため、個人がコストを払ってまで革新して、その利益を取るという感覚に乏しい時代であった。「一億総中流」は、そうしたアンチ(個人的)革新の土壌の上につくられた国家としての一大成果であった。

 そのような社会や行動様式に慣れ、革新する必要がアリアリだったにもかかわらず、革新する利益はおろか、その手法まで忘却して空白を生んでしまった平成。しかし、その末期から、コストを払ってでも革新に自身の行動様式を振った方が享受できる利益が大きいのではないかと考える世代が育ってきた(付言すると、革新のためのコストもインターネットやツイッター、ブログなどの登場で大きく削減された)。

 その中で製作された「えんとつ町のプペル」。その公開のタイミングが非常に戦略的であることはおくとして、まさにこのような考え方を中核的なメッセージとしている。言葉を換えて言うと、この映画は観者の保守度/革新度を測定するためのツールたり得る。つまり、自身がどの程度「革新」というものに心をときめかすことができる性質なのかは、こうした映画を見終わったときの感動に比例する。

 「革新が是で、保守が悪」などと言うつもりはない。ただ、自身の革新度を測定することは、今後の生き方に少なからず影響を及ぼすはずだ。