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 日本の特許訴訟において認容される損害賠償額(認容額)を法改正によって上げていこうという動きがあります。この議論は10年ほど前から「生じては消え」を繰り返しています。この種の議論を聞くにつけ、そのような立法を必要とする背景事実(専門用語では「立法事実」という)が存在するのか、と疑問に思います。

 最も有力な立法事実は、「我が国における特許訴訟が少ないのは、認容額が小さすぎるから特許権者が我が国で特許取得するインセンティブもないし、ましてや、訴訟を提起するインセンティブもない」という議論です。後段の「訴訟を提起するインセンティブ」が行政目標としてそもそも必要かどうかという論点はおきますが、我が国の「特許訴訟の認容額が小さすぎる」という事実の真否について検証します。

 特許庁から2018年3月に発表された資料に、日・米・欧・中・韓の主要5地域における特許侵害訴訟の認容額の上位10件(直近10年)が報告されています。この報告書を参照して、のように、[1]最大値と[2]下位平均値を整理してみました。下位平均値を採用した理由は、上位3件程度は特段事情により損害賠償額が過大に評価されているレアケースの可能性があり、6〜10位くらいの案件がその地域の認容額のレベルを示す指標として妥当であろうと考えたためです。

表●主要5地域における特許侵害訴訟の認容額
ただし、下位平均値は上位10件中、下位5件(6-10位)の平均値。(単位:億円)
表●主要5地域における特許侵害訴訟の認容額
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* 特許庁「特許権侵害における損害賠償額の適正な評価WG」編・「特許権侵害における 損害賠償額の適正な評価に向けて」(平成30年3月)。https://www.jpo.go.jp/shiryou/toushin/chousa/pdf/zaisanken/2017_11_zentai.pdf

日本の損害賠償額は決して低くない

 ダントツの米国はともかく、下位平均値に着目すると、日本は欧州(ドイツと英国)と中国、韓国の3地域の3〜7倍程度の損害賠償額が認容されています。もちろん、特許訴訟は国ごとに行われ、認容額も国ごとに算定されることに鑑みると、その国の経済規模〔国内総生産(GDP)〕によってこの値を補正すべきという考え方もあるでしょう。その考え方を採用したとしても、日本のGDPを上回る中国でさえ、下位平均値は日本を明白に下回っています。加えて、日本の下位平均値に対して1/7程度の欧州と韓国でも、GDPにはそこまでの格差がないことからすると、少なくとも国際比較という観点において、日本の損害賠償額は決して低くはないということが検証できます。従って、国際比較という観点からは、特許訴訟の認容額を増額する立法事実は存在しません。

 そうだとすると、国際比較という観点以外からの立法事実を検討すべきことになります。
例えば、我が国として採るべき政策的意図を実現するという観点からの立法事実はあり得るのか──。これに関してよく言われるのが、「中小企業では特許取得して侵害者に対して訴訟を行ったとしても、損害補填により十分な救済が得られないので、特許取得に対するインセンティブがない」という議論です。

 しかし、この種の議論は手法論として難点があります。

 第1に、一国の訴訟制度は中小企業のみならず、大企業・外国企業も等しく利用者となります。そのような多岐にわたるユーザーセクターが想定される中で、特定のセクターである中小企業の声に耳を傾けるとしたら、そのようなバイアスをかけるべき合理的な理由を説明する必要があります。(ちなみに、大企業の集まりである日本経済団体連合会(経団連)は損害賠償認容額の増大には慎重な立場をとり続けています。)

 第2に、ある当事者は常に特許権者、つまり、原告になるわけではありません。コンペティターに特許を取得されて提訴され、被告になる可能性もあります。被告になる可能性を何ら考慮せずに、専ら原告になるという前提で行われているこの種の議論は、議論手法としては生硬(未熟)であるという批判は免れないように思います。

 「ベンチャー企業を振興するために、彼らの唯一とも言えるアセットである知財評価を高くする必要がある」という議論も聞かれます。しかし、この議論は裁判上の評価を高くすることがなぜアセットとしてのベンチャー特許の評価の高まりに結びつくのかという点について論証が尽くされていません。特許を取得して、侵害している企業に対して提訴を仕掛けるというNPE(特許不実施主体)的なベンチャー企業であればともかく、少なくとも我が国のテックベンチャーにおいては、訴訟の当事者になるということは、被告であればもちろん、原告であったとしても、投資家の評価を下げることになります。投資家の評価が下がるということは、企業価値が下がるということにも直結します。百歩譲って、裁判上の評価=ベンチャーアセットの評価であったとしても、国際比較からして、日本の特許訴訟における認容額は低くないということは既に述べた通りです。結論として、このような議論も主観的に過ぎるように思います。