
ちらほらと聞かれるようになった、「強制実施権」というキーワード。特許権者の意向にかかわらず(強制的に)各国に設定された特許権について、当該国政府が実施権を設定するという概念である。昨今、これが取り沙汰される理由は、言うまでもないが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミック(世界的な大流行)である。
特効薬やワクチンの開発競争を繰り広げている製薬会社のビジネスモデルは、特効薬について各国で取得した特許権を背景に、これを独占的に生産・販売することによって利益を得るというものである。特効薬を生産できるのは特許権者である製薬会社だけだから、製薬会社が特定のA国でのみ生産・販売した結果、A国では十分に行き渡っている特効薬が、B国では入手困難になるという現象が生じ得る。それでは、B国国民の生命や身体に関する権利を守れないので、一定の公益的な要請がある場合、B国政府がその裁量で特許を実施する権利を地場の製薬企業に設定すればよい。これにより、特許権者以外のB国の製薬企業が、特許によって阻まれることなく特効薬を生産し、B国市場に供給することが可能となる。
一見すると、理想的な制度のようにも見えるが、特効薬を開発した製薬会社からしたらたまったものではない。特効薬の特許を背景とした価格設定によって利益率を推測し、事業計画を立てていたにもかかわらず、突然、ある国では強制実施権を根拠に他社が合法的に参入してくるのである。当然、その国で立てていた事業計画は根底から見直す必要が生じる。強制実施権といえども、無償ではなく、特許権者は実施料も手にするし、B国市場でも引き続き販売できるのだからよいだろう、というわけにはいかない。
2012年、世界的なメガファーマ(巨大製薬会社)であるドイツBAYER(バイエル)が保有する腎臓・肝臓がん治療薬「ソラフェニブ(製品名:ネクサバール)」の特許権について、インド政府が地場企業であるNatco(ナトコ)に強制実施権を設定した。この件では、ナトコはバイエルの売値の1/10程度の価格でソラフェニブを市場に供給したという*1。そもそも、バイエルが設定した価格が高価すぎて、インドの庶民層に対して十分にソラフェニブが行き渡らないため、インド政府が強制実施権を発動したというのが背景にある。だが、ナトコの価格設定は、巨額の研究開発投資を行っていない後発メーカーだからこそ可能だったともいえる。
この価格で後発品を販売されては、ソラフェニブについて、バイエルがインド市場で競合することは不可能である。すると、インド市場におけるバイエルの売り上げは特許実施料のみ、つまり、「バイエルの設定価格×10%×ナトコのソラフェニブの売り上げ×6%程度(ロイヤルティーレート)」の金額(バイエル比で1%未満)となってしまう。
民間ベースで自主的に特許を開放する動き
インド政府からすると自国民の生命・身体を守るための施策だったのであろう。だが、このようなことが頻発すると、メガファーマからみると「インドは要注意国」ということになり、インド市場に対して投資しにくくなる。現に、日本の大手製薬会社の知財担当は以下のようなコメントを出している。
「今回の決定により、インドでがん領域の医薬品の開発、販売することが難しくなるのではないか。さらに、インドでのビジネス自体を見直していくことを考えざるを得なくなるかもしれない」*2。
強制実施権の発動は、短期的にはともかく、長期的にはインド政府からしても良い影響は及ぼさない。そのため、強制実施権は多くの国においてこれまで軽々には発動されず、いわば「伝家の宝刀」とされてきた。日本の特許法においても「公共の利益のための通常実施権の設定の裁定」という条文が存在するが、これが発動されたことは過去に1度もない*3。