この男がいなかったら、マツダのスポーツカー「RX-8」は生まれていなかったかもしれない。それどころか、ロータリーエンジンは、もう、この世から消えていた可能性もある。その男の名は田所朝雄。彼がロータリーエンジンの開発に携わるようになったのは、全くの運命の巡り合わせからだった。

朝日がまぶたをくすぐり、街の息吹が鼓膜を揺らす。だが、深い眠りのベールは、その柔らかな刺激を闇の静けさに変えていた。
「田所さん」
「……」
「田所さん」
「なんや、今日は休みじゃろ。もうちいと寝かしてくれえや。ゆうべは徹マンじゃったんじゃけえ」
1963年秋。よく晴れた朝だった。
「何言うとるんですか。今日は試験日でしょうが、一緒に受ける約束をしとった」
「ほうかいのぉ? まあ、ええわ。ワシはやめとくけぇ、あんた1人で行ってきんさい」
「そりゃないですよ。約束じゃけぇ、一緒に行ってもらわんと」
「分かった分かった。行きゃあええんじゃろ。行くけぇ、ちょっと待っとれ」
田所朝雄、24歳。造船所に勤務する技術者である。今日は東洋工業の入社試験日。そういえば、部下の強引な誘いに、ついつい首を縦に振ってしまったような記憶が…。それが今日か。
その後社名をマツダに変えることになる東洋工業は、当時3輪自動車の生産を中心とする小さな自動車メーカーにすぎなかった。しかし業容は急激に拡大しており、作業員を含めれば年間5000人規模の大量採用を進めていた。