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 現在の米中対立に関して、よく1980年代の日米貿易摩擦が引き合いに出される。特に特許に対しては、1980年代は米国がプロパテント政策に大きく舵(かじ)を切った時期に当たり、当時のターゲットであった日本はさまざまな対応を余儀なくされた。

 米中における特許の質的な差はまだ大きく、米国が自国の優位性を維持しようとする考え方は理解できる。一方で、米国が過度に自国の技術の守りに入れば世界的な技術革新のスピードを遅くすることにつながる懸念がある。

 知財保護と技術革新のバランスをどうとるのか、将来に向けた枠組みの創設が急務である。

米国プロパテント政策

 1980年代半ば、貿易赤字の拡大を問題視した米国は、その是正を目的にさまざまな対策を行った。1985年のプラザ合意による米ドル安への誘導や、1988年に成立したスーパー301条の導入による貿易不均衡の是正策が強力であったが、プロパテント政策へと大きく舵を切ったのもその時期だ。

 結果として、米国の貿易赤字は1990年代初頭にはほぼゼロにまで改善した。しかしながら、その後は再び悪化し続けた。2008年ごろから赤字幅は縮小したが、それでも年間40兆円から50兆円の赤字が続いている(図1)。

図1●米国の貿易収支の推移
図1●米国の貿易収支の推移
米国商務省のデータを基に正林国際特許商標事務所が作成。
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 プロパテント政策の目的は貿易収支を改善し、国内技術の保護・育成による国内景気の安定的拡大と雇用の確保である。このため、知財保護という大義名分を掲げながら、実際には米国企業の優遇を行ったという側面が大きい。

 1980年代より前の米国では、技術を独占することに対する批判的な考え方が主流だった。その結果、特に日本を中心とする海外からの製品輸入が増加していたが、1970年代までは貿易収支はおおむね黒字を維持しており、大きな問題とは捉えられなかった。

 ところが、1980年代に入って急速に国内景気が冷え込み、貿易収支も悪化して、安価な海外製品の流入を許したことがその元凶として浮上する。1985年に「強い米国」を標榜するレーガン大統領の要請でまとめられた「ヤングレポート」で米国製造業の競争力低下が問題視され、知的財産の保護が不十分なことが「双子の赤字(財政収支と経常収支の赤字)」の原因とされた。この提言は翌年からの知財政策に反映された。

 ただ、明らかなダンピングでなければ、堂々と関税をかけるわけにはいかない。そこで、国内企業の特許を積極的に認め、また海外での知財保護を要請することで、国内企業の技術優位性を確保しようとしたと考えられる。

 米国が1980年代にとったプロパテント政策の主なものは以下の通りだ。

[1]最高裁判所による特許対象の拡大

 1980年の「Diamond v. Chakrabarty(遺伝子組み換え生物の特許を取得できるとする米国最高裁判所判決)」と、1981年の「Diamond v. Diehr(コンピュータープログラムを実行して物理プロセスの実行を制御することは、発明全体の特許性を排除するものではないとする米国最高裁判所判決)」は、いずれも従来の特許対象では認められなかった発明に対し、特許を認めたものであった。このようにして、米国が得意とする、バイオやコンピュータープログラムの特許が認められるようになった。

 また、1982年の米連邦巡回控訴裁判所(CAFC)の設立によって審議の迅速化が図られ、特許有効判決は飛躍的に増加した。

[2]損害賠償額の高騰

 原告勝訴の判決が相次ぎ、認められる損害賠償額もうなぎ登りとなった。また、特許の損害賠償に関する懲罰的賠償(いわゆる3倍賠償)の運用も弾力化され、故意侵害の認定が拡大された。この結果、1991年の米ポラロイドvs. 米イーストマン・コダックの訴訟では8.7億米ドルもの損害賠償が認められるなど、特許侵害による賠償額が企業の経営基盤を揺るがしかねない規模にまで高騰した。加えて、特許訴訟をビジネスとする「パテント・トロール(特許の怪物)」が生まれ、知財コストが大きく意識されることになった。

[3]スペシャル301条の制定(1988年)

 1974年通商法に追加された条項で、知的財産保護に関する状況に問題がある国について、問題の大きな順から「優先国」 (Priority Foreign Country) 、「優先監視国」 (Priority Watch List) 、「監視国」 (Watch List) の3段階に指定。優先国に特定されると、調査および当該国との協議が開始され、協議が不調の場合は制裁手続きが進められることになった。

 米国への輸出国は何としても優先国認定を避ける必要があり、知財保護を強化することとなった()。結果として、米国が主導するバイオやソフトウエアの特許も広く認めることが進んだ。

表●スペシャル301条の対象国リスト(2020年)
表●スペシャル301条の対象国リスト(2020年)
米国通商代表部(USTR)のデータを基に正林国際特許商標事務所が作成。
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日本の対応

 日本は当時、自動車や半導体を中心に輸出が急増。1985年には15兆円の貿易黒字を計上し、その多くが米国との取引によるものだった(図2)。当時、米国がとったプロパテント政策の影響を最も強く受けることが想定され、対応を強いられた。

図2●日本の貿易収支
図2●日本の貿易収支
財務省貿易統計のデータを基に正林国際特許商標事務所が作成。
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[1]損害賠償額高騰の影響

 有名な損害賠償請求案件として、1992年に地裁判決が出され、その後和解が成立した日本のカメラメーカーに対する米ハネウェル・インターナショナルの自動焦点装置に関する特許侵害訴訟がある。この訴訟により、当時、最も多額の請求を受けたミノルタ(現コニカミノルタ)は約166億円の支払いを余儀なくされた。また、ニコンやオリンパスなども同様に多額の支払いを迫られた。

 これら一連の訴訟は、米国における特許戦略の難しさを意識させることとなった。日本企業は米国における特許出願に慎重になる一方、米国企業の保有する特許をライセンス使用する、あるいは米国企業とクロスライセンス契約を結ぶインセンティブが働くことになった。

[2]スペシャル301条の影響

 スペシャル301条による優先国認定を避けることが最重要課題となった。1985年のプラザ合意による急激な円高によって輸出企業は大きく影響を受け、日本の貿易収支は減少に向かったが、それでも1994年から1996年には優先監視国とされ、その後も1999年までは監視国とされていた。この解消を目指し、海外製品の購入や現地生産を積極的に増やした。