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 以前、私が自動車メーカーで働いていたときのことだ。出勤すると、かならずロッカーに行き、そこで着替える。事務職だけではなく、研究者や設計者などもいた。そうすると、耳を澄まさずとも、色々な会話が聞こえてきた。特に、着替える人間が少なく、私の存在に気づかない社員同士の会話からは、様々な固有名詞が聞こえてきた。

「この前、×××に転職しないかっていう電話がかかってきてさ」
「そうなの? 転職するの?」
「そうすることにした。年収が倍近くになってさ。それで、役職も付くのよ」

 ×××には、外資系自動車メーカーの社名が入る。自動車メーカーで働いている読者は、きっと私と同様の経験をしているだろう。社員の会話を聞いていると、「あそこは、ヘッドハンティングが盛んだな」とか「あそこは、最近あまり名前を聞かないな」などと状況を把握することさえできた。

(出所:PIXTA)
(出所:PIXTA)

 あれから10年がたった。そうやって転職していった人たちがどうなったかは、もちろん知らない。たぶん、半分も働き続けてはいないだろう。

 同様に、生産技術系の社員の会話も耳にした。すると、韓国や中国の自動車メーカーに呼ばれているという内容が多かった。日本の製造業は、改善を積み重ね、そして世界一の品質を実現した。そして、そのノウハウは現場の1人ひとりに宿っている。しかも、それは明確な企業機密というよりも、暗黙知化した「コツ」のようなものが多い。

 定年後の社員は、働く場所を求めて海を渡る。受け入れた韓国や中国の自動車メーカーは、そのようにして日本の技術を手に入れる。そして、たぶん5年ぐらいで辞める。

 当時、日本からのノウハウ移転が叫ばれていたが、「なるほど、このことか」と妙に納得した記憶がある。

三菱電機が受けたサイバー攻撃

 三菱電機は「不正アクセスによる個人情報と企業機密の流出可能性について」と題したプレスリリースを2020年1月20日に発表した。内容は、情報漏洩に関するものだった。同社のネットワークに何者かが侵入したという。

 一部の報道によれば、中国系のハッキング集団が関与した可能性もあるという。ただし、ここでは断定は避ける。三菱電機は、漏洩した技術資料・営業資料の詳細については発表を控えている。ただし、個人情報保護法に沿って、個人情報については規模を公表した。流出した恐れのある機密情報は、以下の通りである。

・採用応募者情報(1987人)
・従業員情報(4566人)
・関係会社退職者の情報(1569人)

 同社は、車載やFA、防衛・宇宙、電力、公共インフラなどを事業として手掛けている。だから、報道や論評では、技術情報などが吸い上げられ、それが中国に渡ってしまうことを問題視しているものが多い。さらに、重要な情報の漏洩によって同社の評判に傷が付き、日本全体のイメージダウンにつながるかもしれないという懸念を述べる人もいる。

 発覚から発表までに半年もかかっていることから、その期間について同社を責める人もいる。あるいは、どのような部門からどのような手段で情報が漏れたのかを発表しなくてはいけないのではないかと指摘する人もいる。とはいえ、期間については調査や再発防止に時間がかかったのかもしれないし、具体的な手段を明らかにしてしまうと模倣犯が出てくるのかもしれない。社員のメールからマルウエアに感染したのか、それともパスワードを見破られたのか。さらに、漏洩した情報はどのようなレベルのものだったのか。様々な疑問と課題が残った。

 しかし、冒頭のエピソードから、私は退職者の情報が最も「価値」のあるものではないかと感じた。漏洩したのは、三菱電機および関連会社の退職者全員の情報ではない。正確には、三菱電機グループにおける2007~2019年の一時金受給者である。

 もちろん、彼らが悪いわけではない。だが、日本の根幹を担っていた技術者たちの名簿が中国に流布したとしよう。そのことは、何の被害も及ぼさないと断定できるだろうか。

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