建築と陶芸の世界を自在に行き来する異才を紹介したい。しかもデジタル活用(デジカツ)の文脈で。キーワードは「設計」だ。
奈良祐希氏、33歳。陶芸では既に、作品がなかなか手に入らないほど人気がある実力者だ。私が彼に初めて会ったのは2019年で、陶芸家として名前と作品が知られ始めた頃だ。
「私は陶芸作品をCADで設計しているんですよ」。奈良氏との最初の会話を、私は鮮明に覚えている。「CADで陶芸の設計?」。彼が建築を学んでいることを知らなかったので、非常に驚いた。そして強く印象に残った。
あれ以来、いつか自分の記事で奈良氏を紹介したいと考えていた。もちろん、建築の話題で。22年秋、ようやく絶好のタイミングが回ってきた。
初対面から約3年が経過し、その間に奈良氏の人気や知名度はますます高くなった。数々のメディアに取り上げられただけでなく、22年には彼の地元である金沢のシンボル、金沢21世紀美術館での展覧会「コレクション展1 うつわ」の中で、9月11日まで奈良氏の作品群も「凍れる花々」として展示された。奈良氏の2つの作品「Bone Flower_Jomon」「Bone Flower_Yayoi」は、21年度に同美術館に収蔵されている。立体作品の収蔵作家としては、最年少に当たる。
30代前半にして、陶芸で大きな結果を出した奈良氏。ちょうど同じタイミングで、今度は建築のプロジェクトが佳境を迎えていた。これまで小さな建築物の設計を手掛けたことはあったが、今回は中規模オフィスの設計である。23年1月の竣工を予定している。
木造2階建てで、延べ面積は473.52m2。金沢の住宅メーカーである家元(いえもと)の新社屋「Node(ノード)」の設計を、奈良氏は19年から手掛けている。自らの建築設計事務所であるEARTHEN(金沢市)も、21年に立ち上げたところだ。なお、施工は家元自身が手掛けている。
私は奈良氏を陶芸家としてではなく、建築の設計者として紹介したかった。本人にもそう伝えていた。それには建築を見られる日まで待たねばならない。
ついに建物の木構造が姿を現したというので、木の柱や梁(はり)、床などが仕上げで隠れて見えなくなる前に、メディアとしては初めて施工現場に連れて行ってもらうことにした。この日を待っていた。
奈良氏は今後、建築でも活躍が大いに期待される。恩師である建築家の北川原温氏をして、「破格の新人」と言わしめただけの素質や行動力が奈良氏にはあるようだ。そんな彼の最初の大型建築プロジェクトを22年9月にようやく見ることができた。今はやりの木造で、しかもチャレンジングな構造に挑んでいる。
デジカツのコラムで取り上げることにしたのは、奈良氏がデジタルの使い手でもあるからだ。驚くことに、建築と陶芸の両方の設計に3次元(3D)CADやコンピュテーショナルデザインのソフトを使っている。建築も陶芸も3Dで幾何学形状のシミュレーションを繰り返す。それにはプログラミングの知識も必要だ。勘と経験がものをいう陶芸のようなアナログな世界で、奈良氏は間違いなくデジタル時代の変革者である。
それにしても、奈良氏はどのようにして建築と陶芸を学んだのか。建築の道を志したのは、金沢21世紀美術館の存在と父親からの勧めがあったからだ。
奈良氏は高校時代、当時建設中だった金沢21世紀美術館の前を通って学校に通っていた。そこで初めて建築を意識するようになり、建築について父に相談したのが全ての始まりである。
実は奈良氏は、金沢で350年以上の歴史を持つ「大樋焼(おおひやき)」の家系に生まれた。父は11代大樋長左衛門、祖父は10代大樋長左衛門(現・大樋陶冶斎)である。デザインの領域でも国際的に活躍する父は長男の奈良氏に「大学で建築を学んで来なさい」と、東京芸術大学美術学部建築科に送り出した。奈良氏は高校時代まで、陶芸には全く興味がなかったという。
一方、建築との出合いは刺激的で、学部生でありながらインターンとして、隈研吾建築都市設計事務所(東京・港)で働く機会を得た。幾つかの建築プロジェクトやコンペを経験できた。インターン終了後、実家の「大樋ギャラリー」の改修設計を隈事務所が手掛けることになった際にもプロジェクトに参加した。
続けて、東京芸大大学院美術研究科建築専攻に進むも、修士1年が終わったところで休学。いよいよ陶芸の世界に足を踏み入れるため、岐阜県にある多治見市陶磁器意匠研究所に2年間通った。
奈良氏は多治見時代に、コンピュテーショナルデザインの手法を習得したというから面白い。建築出身でなければ、この発想は出てこなかったに違いない。代表作になるBone Flowerは、このとき生まれた。3DCADやコンピュテーショナルデザインを駆使した建築的な陶芸である。
大学院に復帰し、当時教授だった北川原氏らの指導の下、都市デザインの研究が高く評価されて首席で大学院を修了。そのまま北川原温建築都市研究所(東京・渋谷)で約2年間、建築の修行を積んだ。北川原事務所に在籍中は、長野市にある「北野建設長野本社」の新築プロジェクトを担当した。
こう書くと、生まれ持った才能と、絵に描いたようなエリート街道を歩んできた人物に思える。だが苦労して東京芸大に入り、ゼロから建築を学んだ。そして伝統ある家業の陶芸を自ら破壊するかのように、3DCADやコンピュテーショナルデザインで設計するという全く新しい陶芸スタイルを創造したのだ。間違いなく、努力の人である。
大樋焼の跡継ぎを期待される立場でありながら、陶芸の世界に新風を吹き込み、なおかつ建築の仕事も続けていく。その大きな一歩が、今回の木造オフィスなのだ。
さて、肝心の建物だが、設計した新社屋は地元の問屋街の入り口という立地にできることから、「街の通り道」をつくる発想が奈良氏の根底にあった。まずはそこを理解する必要がある。
敷地を北東から南西に貫く通り道(緑のミチ)を設け、建物は2つに分棟する構成にした。通り道をつくることで、延べ面積を500m2以下に抑える狙いもあった。
南北方向にも短い通り道(街のミチ)をつくり、2本がクロスする。露地のような通り道は幅が2~3mあり、緑をふんだんに配置する。通り道に面した側は壁を最小限に抑えて大部分をガラス張りにし、室内から緑を眺められるようにする。
緑のミチの2階レベルには、分棟を結ぶ3つのブリッジ(渡り廊下)を架ける。3つのブリッジのプロポーションや配置、ブリッジに挟まれた植栽エリアの幾何学的な空間検証に、コンピュテーショナルデザインが役立ったという。
「2つの通り道に対して、内向きに開く」。奈良氏はこの建物のコンセプトをそう説明する。家元の新社屋ではあるが、1階は土間空間にして、街の人たちが利用できるカフェやギャラリー、シェアオフィスなどにする計画だ。テナントに部屋を貸し出す。
コロナ禍で社員が本社に通う頻度は減った。そこで自社オフィスは2階にまとめ、1階はテナント貸しにして安定した収益を上げられるビジネスモデルを、奈良氏はクライアントと一緒に考えた。
「最初に新社屋の話を聞いたときは、成長のシンボルになるような近隣で一番高いビルを建ててほしいという依頼だった。だが設計の途中でコロナ禍に突入。クライアントも私もオフィスに対する考え方がガラッと変わり、設計をやり直した」(奈良氏)。それが現在の姿である。
以下に、豊富な写真と資料で新社屋の施工現場を示す。