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 「新型コロナウイルス感染症との戦いに、以前からの米中貿易摩擦も絡んで、サイバー空間の地政学はますます複雑な様相を呈している」。慶応義塾大学の土屋大洋教授はこう指摘する。米中摩擦による経済や技術のデカップリング(分断)が顕在化するなかで、デジタル変革に進む日本の政府や企業はIT関連の製品や技術の選択において難しい判断を迫られそうだ。

慶応義塾大学の土屋大洋教授
慶応義塾大学の土屋大洋教授
(出所:慶応義塾大学)
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ワクチン技術を狙ったサイバー攻撃が発生

 新型コロナの流行を機に、一般家庭や企業を狙った金銭目的のサイバー攻撃と国際政治が絡むサイバー攻撃との両方が増えている。トレンドマイクロによれば2020年上半期、国内におけるフィッシング詐欺は2016年の調査開始以来、最大となった。

 「COVID-19」など新型コロナに関する文言でだまそうとする詐欺メールや偽サイト、トロイの木馬などが急増したわけだ。テレワークや遠隔授業が本格的に始まったことで、新たにリモートアクセスの仕組みや家庭・学校のネットワークも標的となった。テレワークで言えば、2020年8月には米Pulse Secure(パルスセキュア)製のVPN(仮想私設網)装置に格納されたIDやパスワードなどの認証情報が、世界中の900社から流出していたことも分かった。

 加えて「新型コロナのワクチン開発を巡るサイバー攻撃も活発化してきた」(土屋教授)。背景には各国のワクチン開発競争がある。

 例えば新型コロナを広めたという汚名を返上したい中国はコロナ対策で医師団や医療物資を送る「マスク外交」を展開したものの、支援物資に粗悪品が見つかるなど不調が続く。ならばと新型コロナのワクチンを開発し、「ワクチン外交」を狙っている。ロシアも2020年8月に臨床試験を完全に終了しないまま、世界で初めて新型コロナのワクチンを承認した。欧米諸国もワクチン開発にしのぎを削っている。

 各国が競うなか、ワクチン技術に関わる機密情報を狙ったサイバー攻撃も激しくなってきたというわけだ。米連邦捜査局(FBI)は2020年5月、中国が新型コロナのワクチンや治療法などに関する知的財産やデータを盗もうとしているとして、米国の製薬会社や研究機関に警告を発した。

 続く2020年7月には英政府が注意喚起を発した。新型コロナのワクチンを開発する英米やカナダの研究機関に対して、ロシアのハッカー集団がサイバー攻撃を仕掛けているという内容だ。

歴代の対中政策、「失敗だった」

 米国は以前から中国のサイバー攻撃に対して警戒心を持っていた。例えば2013年6月の米中首脳会談では議題の1つがサイバーセキュリティーだった。オバマ米大統領(当時)は習近平国家主席に中国のサイバー空間におけるスパイ活動、特に中国の政府機関による米国企業への産業スパイ活動をやめるように迫ったが、合意に至らなかった。

 その2年後の2015年9月の米中首脳会談では、両国とも「知的財産を盗むサイバー攻撃を実行しないし、支援しない」ことで合意。これは米国政府が「合意に至らない場合は経済制裁を課す可能性」を示唆し、中国側がそれを回避したためだったとされている。

 2017年1月から発足したトランプ政権は2019年からの中国通信機器最大手、華為技術(ファーウェイ)に対する事実上の禁輸措置も含め、中国に対する経済制裁を連発している。土屋教授は「ホワイトハウスよりも米議会のほうが、米国の国内産業ひいては国際政治経済的な覇権を守るための対中強硬論は強い」とみる。

 土屋教授は「トランプ政権以後、中国研究者たちの間で認識が変わった」と続ける。1972年にニクソン米大統領(当時)が訪中して以来、米国は中国に対して経済的発展を支援することで民主化を促すという「関与政策」を採ってきた。

 しかしトランプ大統領が2016年の大統領選でも問題視したような巨額の対中貿易赤字の問題に加えて、中国政府による香港自治への侵害やウイグル族への弾圧などを目の当たりにして、中国が経済発展しても米国が思うような民主的な国にはならないという認識が広がった。2020年7月23日、ポンペオ米国務長官は関与政策を「失敗だった」と訴えた。