1980年代に栄華を極めた日本の半導体産業は、1990年代以降、急速に国際競争力を失った。一つの要因とされるのが、日米政府が1986年に締結した「日米半導体協定」である。1996年、日本の半導体業界を代表してこの協定の終結交渉に臨んだのが、牧本次生氏だ。日立製作所で半導体事業を率い、後にソニー専務などを務めた“ミスター半導体”の異名を取る人物である。協定を終結に導くまでの秘話を同氏が明らかにする。
1996年8月2日─。
この日が、日本と米国にとって“もう一つの終戦の日”であることを知る者は少ない。1980年代半ばに沸き起こり、その激しさ故に戦争にも例えられた「日米半導体摩擦」に終止符が打たれた日である。両国の政府が1986年7月に締結し、10年間続いた「日米半導体協定」を延長しないことに、官民の代表が最終合意したのだ。舞台は、カナダのバンクーバーにあるホテルの一室だった。
歴史的な交渉の場に、牧本次生(現 半導体産業人協会 代表理事)は日本の産業界を代表する立場で臨んでいた。牧本は当時、世界第4位の半導体メーカーだった日立製作所の常務 兼 電子グループ長として、半導体/ディスプレイ事業を束ねていた。JEITA(電子情報技術産業協会)の前身であるEIAJ(日本電子機械工業会)の電子デバイス委員長を務めるなど、国内半導体業界の“顔”といえる存在だった。