2015年に発覚したドイツ・フォルクスワーゲンによる排ガス不正問題。欧州市場でディーゼルエンジン車が激減し、欧州自動車メーカーが電動化に大きくかじを切る「転換点」になった。
いまだに収束しないこの問題の真相に切り込んだのが、ニューヨーク・タイムズの記者による「フォルクスワーゲンの闇」(2017年、日経BP)である。ものごとを独裁的かつトップダウンで推し進める文化を背景に、不正問題が生じるのが必然と言える結末だったことを解き明かす。本書から10章「いかさま」を紹介する。フォルクスワーゲンは変われたのか。(日経クロステック編集部)
2007年夏――。フォルクスワーゲンの最高経営責任者に就任して1年も経っていないマルティン・ヴィンターコルンが、壮大な計画をぶち上げた。当時600万台だった販売台数を、10年後に1000万台超にするものだ。GM社とトヨタ自動車を抜いて世界一になることを目指す。“世界制覇”を狙う上で中心的な役割を担うのが、排ガス不正問題の原因となったディーゼルエンジンだった。ハイブリッド車「プリウス」で成功するトヨタに勝ち、アメリカ市場を攻略するのにディーゼルが欠かせなかった。
アメリカはフォルクスワーゲンにとって悩みの種だった。フォルクスワーゲンはヨーロッパを支配している。中国でも、ラテンアメリカでも、ビッグプレーヤーだった。それなのに、アメリカでは少し大きめのニッチブランドとして、スバルのような輸入車と同じ扱いだった。
フォルクスワーゲンにとって2007年は、野望の達成に絶対欠かせない新型ディーゼルエンジン「EA189」の設計・開発が難航し、混乱の1年となっていた。
前年、フォルクスワーゲンの最高経営責任者の座から追われる前のベルント・ピシェッツリーダーが、シュトゥットガルトに本拠を置くダイムラーから借りた排ガス制御技術をフォルクスワーゲンのディーゼル車に搭載する計画を立てていた。
かつてダイムラーで取締役を務め、フォルクスワーゲンブランドの乗用車部門のトップだったヴォルフガング・ベルンハルトも、ダイムラーの技術を使うことを支持していた。「ブルーテック」と呼ばれるその技術は、尿素水溶液を使って排ガス中の窒素酸化物(NOx)を無害な窒素と酸素に分解する。
ブルーテックは効果的だったが、欠点も多かった。車に尿素水溶液用のタンクを設置しなければならず、車の所有者や整備士は定期的に尿素水溶液を補充する必要がある。タンクを取り付けるぐらいたいしたことはないと思えるかもしれないが、高い販売目標を掲げるフォルクスワーゲンにとっては大問題だった。
尿素タンクが荷室のスペースを奪えば、荷物の可能積載量にうるさい自動車雑誌の評論家はその車に低い評価点数をつける。また、尿素水溶液の補充は、オーナーに追加作業と費用を強いるので、顧客が購入をためらうかもしれない。さらに、ブルーテックを搭載すると車両価格が350ドルほど(もっと低いと考える専門家もいた)高くなる。強豪ひしめく中型セダン車市場では大きな欠点だ。
これらすべての要因がフォルクスワーゲンでは特に深刻な問題となった。同社はディーゼルをアメリカ市場でのシェア拡大を促進する急先鋒と位置づけていたからだ。少しでもディーゼルの魅力低下につながることは避けたかった。
ダイムラーの策略と疑うピエヒ
プライドの問題もあった。ヴォルフスブルクのフォルクスワーゲンとインゴルシュタットのアウディで働くエンジニアは、自分たちこそがディーゼル技術のパイオニアであると自負していた。彼らにとって、ダイムラー(当時はダイムラー・クライスラー)から技術供与を受けるのは屈辱以外の何ものでもない。
1989年に最初のターボチャージ式直噴ディーゼルエンジンをマスマーケットに投入したのはフォルクスワーゲングループのアウディだった。
ヴォルフスブルクの開発拠点に勤務するエンジニアのなかには、ダイムラーの技術はマスマーケットに投入できるほど成熟していないと考える者もいた。ダイムラーの技術には本質的な欠点があった。たとえば、尿素水溶液を使った排ガス浄化装置はエンジンが温まるまで効果を発揮しない。ダイムラーでうまくいった技術がフォルクスワーゲンでも機能するとも限らない。
メルセデス・ベンツは高級車なので、ブルーテックのせいでコストが増えてもさほど大きな影響はない。それにメルセデスは車体が大きいので、尿素タンクを設置するスペースも十分にある。
当時まだ監査役会の会長だったフェルディナント・ピエヒも、フォルクスワーゲンとシュトゥットガルトのライバル社との提携の裏には、隠された動機があると疑っていたようだ。実際、何年も前から、ダイムラーがフォルクスワーゲンの買収に興味を示している、あるいはフォルクスワーゲンに強い影響を及ぼすだけの株式を買い集めている、といううわさが広まっていた。
ピエヒと近い関係にあるニーダーザクセン州首相のクリスティアン・ヴルフも、ダイムラーに対しておおっぴらにフォルクスワーゲンの株を買うよう勧めていた。ヴォルフスブルクの門をダイムラーに向けて開くことでピエヒの影響力を抑えつけようという策略があり、ブルーテックの提携はその策略の一部に違いない、そうピエヒが考えていたとしてもおかしくはない。
厳しいアメリカの排ガス規制に苦悩
ブルーテックの代替案として唯一実現が可能だったのは、リーンNOxトラップ(LNT)だった。触媒コンバーターの一形態であるLNTは、チャンバー内の窒素酸化物を捕え酸素と窒素(N2)に還元する。N2は無害な窒素分子で、大気中に豊富に含まれている。
触媒はすぐに窒素酸化物で飽和状態になるので、点火が行われるシリンダー内の空気と燃料の混合気を一時的に濃くするリッチ噴射を定期的に行って再生させる。エンジンで燃えずにNOxトラップに流れ込んだ余剰の燃料は、洗浄剤のような役割を果たす。つまり、窒素酸化物は余剰燃料と反応して、窒素と酸素に還元され、無毒化される。
リーンNOxトラップ技術は尿素を使ったダイムラーの化学的な方法よりも安価だった。また、タンクに尿素水溶液を補充する必要がないため、車の所有者によるメンテナンスも必要としない。
しかし、排ガス浄化技術が往々にしてそうであるように、問題を一つ解決すると新たな問題が発生した。リーンNOxトラップだけでは窒素酸化物を完全に中和することができなかったのだ。
そのためフォルクスワーゲンは、もう一つの汚染制御技術を使う必要があった。排ガス再循環(EGR)システムである。その名が示しているように、この仕組みは排ガスの一部をシリンダーに送り返す。排ガスは大気中の空気よりも酸素の含有量が少ないため、シリンダー内の燃焼温度が下がる。その結果、燃焼で発生する窒素酸化物の量が少なくなる、という仕組みである。
排ガス再循環の欠点は、エンジンで発生する発がん性の微粒子の量が増えることにある。排ガス浄化装置では、テールパイプから流れ出す前にすすを捕まえるためにフィルターを使うが、この微粒子はフィルターにも悪影響を及ぼす。
フォルクスワーゲンの排ガスラボの試験で、微粒子が増えるとフィルターの摩耗が極端に早まるおそれがあることがわかった。これは規制上も顧客視点でも問題だった。法律上、排ガス浄化装置は当該車両の耐用期間中はずっと有効に働かなくてはならない。当時、アメリカでは耐用期間は12万マイル(およそ19万3000キロ)と決められていた。
たとえば走行5万マイル(8万キロ)でフィルター交換となれば、それは法令違反であると同時に、所有者に余分な出費と不便を強いることになる。売り上げにも影響するだろう。この問題をアメリカで解決するのは特に難しかった。アメリカはヨーロッパよりも窒素酸化物に対する規制が厳しく、違反に対する罰も重いからだ。