楽器がひとりでに音を奏で、バンドの映像に合わせ照明が変化――。音楽ライブの演奏や映像、照明をデータ保存して再現する技術を開発する。あらゆるライブを誰もが時空を超えて追体験できる世界の実現を目指す。
静岡県浜松市のヤマハ本社には、「INNOVATION ROAD」と名付けた企業ミュージアムがある。定刻になると、ステージに置かれたピアノ、コントラバス、ドラムによるジャズセッションが始まった。聞こえるのは生楽器の演奏なのに、ステージ上の人は映像だ。楽器がひとりでに音を奏でているように見える。まるで魔法を見ているような光景だ。
展示技術は「Real Sound Viewing」。ヤマハデザイン研究所プロダクトデザイングループ主事の柘植秀幸が開発した。プロの演奏をデータとして記録し、楽器に取り付けて振動を与える加振器により楽器を鳴らして再現する。
「いわばライブの真空パック」。柘植はそう表現する。生演奏を保存し、いつでもどこでも再現できるからだ。柘植が目指すのは、時間や空間を超えて音楽ライブを追体験できる世界だ。
「月に手を伸ばせ」
技術開発に着手したのは2016年12月のこと。ピアノに取り付けた加振器により、音色を変えたり反響音のような効果を付けたりできる技術を社内で目にしたときだ。柘植が当時デザインを担当していた音響機器の技術を組み合わせ、過去の演奏を再現することを思い付いたという。そしてアイデアは自身の原体験と結び付き「ぜひとも実現したい」との熱意に変わった。
2000年夏の横浜アリーナ、大ファンだった日本のロックバンドBlankey Jet Cityの解散ライブ。高校2年生だった柘植は、アルバイト代を貯め初めて参加したライブに心を揺さぶられたという。この体験がきっかけでバンドを始め、音楽関係の仕事を志すほどの衝撃だった。会場の外にはチケットが取れなくても最後のライブを共有したい一心で多くのファンが集まっていた。「人生を変えるほどのライブの力を体験するとともに、体験できなかった人たちの姿が目に焼き付いた」という。
「Reach for the moon, even if we can't.(月に手を伸ばせ、たとえ届かなくても)」。柘植の座右の銘は、1980年代に活躍したパンクロックバンドThe Clashのリーダー、ジョー・ストラマーの言葉だ。柘植は「無理だと思っても、何事もまずは手を動かしてみることが大切」と力を込める。
ライブの「真空パック」という不可能に思える試みも、柘植が一人で手を動かすことから始まった。鍵盤楽器や弦楽器、打楽器はそれぞれに形状や大きさ、音が鳴るメカニズムが異なる。どんな加振器をどこにどう取り付ければ演奏を忠実に再現できるか。「最初、開発費は自腹だった。何度も失敗を繰り返して、100個くらいはプロトタイプを作ったと思う」。