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 「アベノマスク」が品質問題でつまずいた。ご存じの通り、安倍晋三政権が繰り出した新型コロナウイルスへの感染防止策の1つで、国民に配布した布製マスク(以下、マスク)のことだ。妊婦向けに配布したマスクに汚れの付着や、虫や髪の毛といった異物の混入などが発覚した上、各世帯への配布向けに用意したマスクにはカビが生えているものまで見つかった。国民の生命・健康を守るためのマスクのはずが、まさかの品質トラブルに見舞われたわけだ。

 我々の常識から考えると、マスクに対する品質管理が適切に行われているとはとても考えづらい。ましてや、安全・安心を特に重視しなければならない妊婦向けに配ったマスクがこれでは、社会的な非難が上がって当然だろう。

 品質管理の悪さを指摘するのは簡単だが、もう少しこの問題を掘り下げて考えてみたい。まず、これだけの短期間で新たな調達先の確保などを含め、約50万枚のマスクの生産・調達を実現できたのは、関係者のサプライチェーンをコントロールする能力と、オペレーション能力の高さによるものに違いない。製造業に携わる者であれば、このミッションが容易ならざるものであることは理解できる。

 今回のような場合、関係者が「手を抜いて」、つまり衛生管理を軽視した結果発生したと考えるのは早計だ。もしも、コストや納期を重視して品質を軽視するあまり、実行すべき衛生管理を適切に行わなかったのであれば非難に値するだろう。しかし、これまで多くの生産現場を見てきた筆者は、別の可能性を考えている。

全世帯に配布されたマスク
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全世帯に配布されたマスク

我々の常識は世界共通の常識ではない

 衛生管理を軽視したわけではないのに品質が悪いマスクになった理由を、筆者の経験から仮説を立てて議論してみたい。

 仮説というのは、[1]適切に指示したつもり、[2]適切に指示を実行したつもりになっていたせいではないかというものだ。報道によると、緊急調達の要請を受けた企業は、国内では必要な量のマスク調達が難しいと判断。マスクの生産に慣れていない海外の衣料品縫製工場を活用し、マスク生産を委託したという。また、生産に際しては、マスク生産の実績を持っている国内企業から、生産に関わる仕様(恐らく衛生管理を含めた生産条件など)と材料の供給をしてもらっているとの発表もあった。

[1]「適切に指示したつもり」の可能性

 「マスク生産の実績がある企業から仕様の提供を受けて生産した」とのことだが、仕様書に衛生管理などの方法が漏れなく100%確実に記載されているとは限らない。

 これは、どの産業でもいえることだが、その業界の中で常識レベルの内容は明文化されていないことが多い。業界の誰もが知っているので、仕様書や指示書としてあえて明文化する必要がないからだ。加えて、取引関係が継続的である場合も、毎回同じことを繰り返し伝える必要はないため、取引を継続する中で生まれた生産や管理上のポイントの多くは明文化されない。

 いわゆる、その企業としてのノウハウやその業界としてのノウハウが「常識レベル」で存在しており、それらは暗黙知になっている。そのため、形式的に仕様書を展開したとしても、それで十分とは限らないのだ。

 特に今回の場合は、普段はマスクの製造をしていないと思われる衣料品縫製工場を活用した緊急生産だ。衛生用品を生産するための「常識」が、それらの工場では「常識ではなかった」可能性が十分にあり得る。果たして、上記のような暗黙知まで拾い上げて生産現場に展開できていたのだろうか。

「手をきれいにせよ」も業界によって意味が異なる

[2]「適切に指示を実行したつもり」の可能性

 かつて問題になった、外食チェーンにおける肉の落下問題を覚えているだろうか。あの問題で露呈した通り、たとえ床に処理中の肉が落ちたとしても、特に汚れていなければ大丈夫、と考える人は世界にはごまんといるのだ。我々の「常識」ではそうした肉は不衛生だと思うが、残念ながら「世界共通の常識」ではない。

 多くの場合、作業者は決して悪意を持っているわけではなく、手を抜くためにズルをしようと考えているわけでもない。「目に見える異物が付いていなければ大丈夫」「床が汚れていなければ落ちたとしても大丈夫」といった具合に、衛生に対する感覚や基準がその国の文化や人によってさまざまなのである。

 こうしたことが「我々の常識」が「世界共通の常識」ではないことの代表例だろう。日本の常識を知ってもらいたいのなら、明確な形で教育しなければ、その国の「常識」は変わらない。逆もまたしかりだ。ほんの少し前まで、日本でも「落ちてもすぐに拾えば大丈夫」と、いわゆる3秒ルールのような話がなかば冗談交じりに語られたりしていたので、他国のことを笑うことはできない。

 通常、マスクなどの衛生用品を生産している工場は、顧客からの指導も含めて、従業員が衛生に対する一定の知識を持って生産している。工場管理も業界の「常識」に則(のっと)った形で行われている。当然ながら買い手側も、生産工場はそのような「常識」を持っていることを前提にして委託する。従って、マスク生産の経験がある企業であれば、「常識」をあえて確認しなくても、それなりの品質を確保できただろう。

 ところが、衣料品縫製の技術を持っている企業が、必ずしも衛生用品に対する「常識」を持っているとは限らない。持っていても、我々の考える「常識」と同じかどうかは分からないのだ。

 例えば、衣料品の縫製工場の作業者が「作業前に手を洗って清潔な状態で作業する」と教えられていたとする。衣類を汚い手で触ると商品価値が下がるからだ。しかし、「殺菌作用のあるせっけんを使って所定の動作で手を洗い、その後、アルコール消毒を実施する」といった高度な衛生管理レベルが適用されていたかどうかは確認が必要だろう。

 さらに言えば、「作業する机は作業前に必ずアルコールで念入りに拭く」などと作業場所の衛生管理に対する指示がされていたとする。ところが、その作業机のすぐ横に素手で搬入された段ボールが積み上げられているといったように、衛生状態が場所によってちぐはぐになっていた可能性もある。これではせっかく消毒しても、汚れや菌が作業場所に持ち込まれてしまう。

古谷 賢一
古谷 賢一
ジェムコ日本経営本部長コンサルタント、経営学修士(MBA)
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