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 東京都の新型コロナ対策サイトの開発を手掛けた一般社団法人のコード・フォー・ジャパンは2019年4月15日、濃厚接触者を追跡するスマートフォンアプリの開発を進めていると発表した。参考にするのはシンガポール政府のアプリ「TraceTogether」だ。政府もコード・フォー・ジャパンなど民間が開発するアプリを推奨して普及を促す意向だ。

 日本版TraceTogetherが効果的な新型コロナ対策になりうるのか、日本が参考とするシンガポールの実情から課題を探る。

シンガポール全人口の15%以上が登録

 TraceTogetherは新型コロナ発症者の濃厚接触者を効率的に見つけるためにシンガポール政府が国民へ提供しているスマホアプリだ。2020年3月20日、国内向けに配布を始め、現時点で100万人以上がユーザー登録した。全人口の15%以上が使っていることになる。これまでに50カ国以上の政府が自国への導入に興味を示しているという。

シンガポール政府が提供する追跡アプリ「TraceTogether」
シンガポール政府が提供する追跡アプリ「TraceTogether」
(出所:森和孝氏)
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 TraceTogetherはAndroid版とiOS版が無料で配布されており、シンガポールの携帯電話番号とBluetoothを搭載したAndroidかiOSのスマートフォンがあれば、シンガポールに住む人は誰でも利用できる。

アプリインストール時の事前同意画面
アプリインストール時の事前同意画面
(出所:森和孝氏)
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 ユーザーは電話番号を登録した後、iOS版なら常にアプリを最前面(フォアグラウンド)で起動しておき、Android版ならバックグラウンドで起動しておけばよい。ユーザー同士が近づくと互いの端末が自動的にBluetoothで通信し、相手の「一時ID」「受信信号強度(RSSI)」「端末機種」などの情報をスマートフォンに21日間蓄積する。GPS(全地球測位システム)情報などユーザーの位置データは記録しない。

 アプリ所有者は新型コロナウイルスへの感染が判明した際、保健省の追跡チームから端末内のデータを同省にアップロードするよう同意を求められる。保健省が感染者に提供する認証コードと、アプリに表示されている認証コードの一致をユーザーが確認し、画面上のボタンを押すとデータがアップロードされる仕組みだ。

 保健省は同時に、感染者に対して「最近どこに行っていたか」「最近誰と接触したか」などをヒアリングし、濃厚接触者を追跡するためのしきい値、すなわち感染者との「距離」と「暴露時間」を決める。このしきい値を用いてアップロードされたデータを解析することで、濃厚接触の可能性が高いアプリ所有者を効率的に特定できる。

 濃厚接触の可能性が高い人に対しては、アプリに登録された電話番号に保健省の追跡チームが直接電話をかけ、医療指導や適切なケアを進める。

運用のポイントは「Human-in-the-loop」

 シンガポール政府によるTraceTogether運用のポイントは、あえて人を介在させる(Human-in-the-loop)点にある。具体的には、上述の通り「濃厚接触者の特定」と「濃厚接触者への通知」の2段階で人が介在している。

 「濃厚接触者の特定」において保健省職員は、感染者がいた「場所」や「環境」を基にしきい値を調整している。例えば感染者が換気されていない密閉された空間にいたのであれば、一般的な濃厚接触の定義より短い暴露時間を設定し、フィルタリングする必要があるだろう。一律なしきい値を用いて機械的に接触者を分類するのではなく、人間が個別に調整している。

 「濃厚接触者への通知」においては、パニックを抑えるためアプリによる通知ではなく電話での連絡を原則としている。感染者と接触の疑いがあると通知された人が大きな不安を感じるのは想像に難くない。保健省の追跡チームは直接接触者と会話し、プライバシーを尊重しながら「どのようにして感染者との接触が起きたのか」を説明し、適切な医療指導をする。このような丁寧なケアによって、濃厚接触者のパニックを最小限に抑えているのだ。

外出への罰則を1日で制定

 シンガポール在住で同国の法律やITビジネスに詳しい森和孝弁護士は、シンガポールで上記のような運用が成り立つ背景には、「2003年の重症急性呼吸器症候群(SARS)流行の際などに強化された感染症法によって法的強制力のある措置ができる点も大きい」と指摘する。

 例えば、医療機関は感染の疑いのある者に対して健康診断または治療を受けることや、疫学的調査のために本人が知る情報や所有物を提供することを命じることができる。合理的な根拠なく従わない場合は初犯で1万シンガポールドル(約75万円)以下の罰金もしくは6カ月以下の懲役を科す。

 必要な立法も極めて迅速だ。シンガポール政府は4月3日、その時点で法的強制力のない外出制限を発表したが、効果が薄いと見るや4日後の4月7日に外出制限を義務付ける法案を国会に提出し、同日中に可決され、施行も同日から始まった。

シンガポールの感染症法65条。罰則が規定されている
シンガポールの感染症法65条。罰則が規定されている
(出所:森和孝氏)
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 保健省はTraceTogetherのFAQサイトで、感染したユーザーのデータを事前の同意なしに使わない点を強調している。しかし同時に、「データのアップロードを断れるのか」という質問の回答欄には、「保健省から連絡を受けた場合、アプリで収集したデータの提供が法律で義務付けられている」とも明記している。

 TraceTogetherの仕組み自体は、ダウンロード時と情報提供時にユーザーの同意を求める、いわゆる「オプトイン」方式だ。一方でその仕組みが実効的に機能するのは、事実上協力せざるを得ないような社会システムが構築されているという側面もあるようだ。