大学が多く立地し、「日本のカルチェ・ラタン」とも比喩される東京・神田駿河台から神保町にわたるエリア。その神田神保町の靖国通りから道を一本入った区画に、専修大学の神田キャンパスがある。1880年の創立から140年を迎えるのを機に、靖国通りに面する新たな敷地にキャンパス再編構想の核となる高層校舎が計画された。
高度経済成長期以降に一度、キャンパスの郊外移転の流れが生まれた。しかし、近年、施設の再整備を含め、大学の都心回帰が進んでいる。社会・経済のグローバル化や情報の高度化への対応、少子化に伴う学生数の確保などの必要性が、その背景にある。
専修大学の場合も、将来ビジョンを策定し、神奈川県の生田キャンパス(1949年開設)から都心に一部の学部の移転を進めている。また、グローバル社会に対応できる人材の育成を目指し、キャンパス再編の基軸として新学部の設立を検討してきた。新設の国際コミュニケーション学部などが入る今回の記念館に、それが結実した。
変形敷地を活用する都心型校舎
本計画は、前述のように生田キャンパスからの学部移転および新学部設立などをはじめとするキャンパス再編の一環として始まっている。約3000人の学生が対象となる授業展開の受け皿の整備が求められた。
隣接する他の敷地が食い込む複雑な形状の敷地を効率的に活用するため、整形かつ大きな面積が必要となる機能を、敷地北側に配置した。400人規模の講堂や大教室などが、これに当たり、その外周には避難階段や設備諸室を巡らせた。合わせて設備計画の合理性や、隣地との関係で難しくなる採光をいかに確保するかなどを考慮している。
足元の計画を複雑な敷地形状になじませるため、低層部のピロティ化によって空地を確保した。これを門壁によって囲い込まず、敷地形状に沿う通り抜け空間として街を取り込む格好とした。北側に位置する既存キャンパス群とのつながりや、飯田橋・神保町・九段下方面からの各アクセス動線にも配慮し、キャンパス全体の中の新たなゲート的存在として位置づけている。