WeWorkはコロナショックを受けて、どんな想定外に襲われ、戦略をどう描き直しているのか──。
シェアオフィスの“黒船”といわれ、2018年に日本国内で初拠点を開業したWeWork。以降、大都市を中心に新規拠点の開設攻勢をかけた。一方で米国では19年、同社のキャッシュフローなどへの批判が相次ぎ、新規株式公開(IPO)を延期。不正会計の疑いも報じられた。評価額は暴落し、創業者の1人であるアダム・ニューマン氏は最高経営責任者(CEO)を辞任した。影響は株主であるソフトバンクグループにも波及し、「WeWorkショック」と呼ばれた。
翌20年、今度は新型コロナウイルスの感染が急拡大。国内でも緊急事態宣言が発令され、多くの企業はオフィスへの出社を抑制した。「コロナショック」の状況で、オフィスサービスを手がける同社への逆風は続いた。
WeWork Japanのジョニー・ユーCEOは、「20年まで、我々はてんぐだった」と打ち明け、コロナ禍で商品設計を変えたことを日経クロステックに語った。一方で、「中期的にはポジティブな影響だ」として、コロナ禍によるニューノーマルが同社の事業にとって追い風となると述べた。
ユーCEOが初めて語ったWeWorkのコロナ後の針路とは。(聞き手は島津 翔=日経クロステック)
コロナ禍での2年、WeWorkにとっては厳しい時期だったのでは。
ジョニー・ユーCEO:コロナ禍が始まった2020年前半、我々は楽観的でした。新型コロナウイルスはそこまで強烈な感染症ではないという感覚を持っていた。半年から1年くらいで収束するだろうと。事業面でもインパクトは大きくなかったんです。月間契約や3カ月契約といった短期契約の顧客がパラパラと解約する程度でした。
ただ、夏になっても収束の兆しが見えない。我々の危機感が高まってきたのは秋ごろでした。
少し背景を丁寧にご説明させてください。そもそもご存じの通り、19年末からWeWorkは業績悪化に伴うリストラを開始していました。ピークで1万5000人いた従業員を段階的に減らし、現在は4000人以下になっています。19〜20年はグローバルで厳しい時期でした。しかし、19年は日本だけが絶好調だったんです。
我々は18年に日本で初めての拠点をオープンしました。日本の不動産業は保守的なので、当時は良好な物件を貸してくれる事業者は多くありませんでした。19年になって「WeWorkって面白いね」というビルオーナーが増え始めて物件を仕込み、20年にそれらの新規拠点が一気にオープンしました。
その時期とコロナ禍が同時にやってきた。20年の秋ごろから、その新規拠点がなかなか埋まらない時期が続きました。会員数は減りませんでしたが、床面積が一気に増えた分、厳しかった。「これではビジネスが成立しない」という状況でした。9月、10月になって、「新規の拠点開発は一旦、停止しよう」という意思決定をしました。
21年に入って、私の想定が外れた部分もありました。
東京五輪・パラリンピックが予定されていたので、私たちは夏までには東京がもう一度「オープン」になるだろうと踏んでいました。しかしその予測は全くもって外れてしまった。1月〜10月までのほとんどが緊急事態宣言とまん延防止措置の期間になった。不動産の世界では、内見に来ないで契約することはほとんどありません。企業はこの期間、出社や外出を抑制していましたので、我々は営業活動をすることがほとんどできませんでした。
稼働率はどれくらいだったのでしょうか?WeWorkのグローバル全体では20年に45%まで落ち込んだとしています。コロナ禍でテレワークへの移行は進みましたが、不特定多数が集まるシェアオフィスが敬遠される傾向があるように思います。
ユーCEO:日本個別の数字は控えますが、グローバルと傾向は似ています。グローバルは20年は稼働率が落ち込みましたが、21年から数字が戻ってきていて、稼働率は65%程度。日本はグローバルに比べて半年〜1年ほど遅れていますが、22年になって再び急成長している状況です。国内も間違いなく回復しています。
回復の理由は?
ユーCEO:フレキシブルオフィス(編集部注:シェアオフィスやコワーキングスペースなど、外部の利用者にも提供できる柔軟な共用型オフィスを指す)の価値がコロナ禍で高まっていることです。
考えてみてください。多くの企業がこれまで人数分の席を用意していました。例えば100人のために100席を並べていた。稼働率なんてほとんど見ていなかったわけです。営業担当の多くが日中、外出していたとしても100席用意していた。1週間に数時間しか使っていない机のために賃料を払っていた。その事実に企業が気づきました。1人1席なんて必要ない、と。