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 ここで猫柳君は大きく息を吸い込み、グッと社長を見据えて話し始めました。
「社長は以前『契約もらって代金回収して初めてお客さんだ』っておっしゃってました。ということは、古戸社長は僕のお客さんではありません」

「ふむ。それで?」
「古戸社長はお客さんでもないのに、若い頃の営業経験談をたくさん教えて頂きました。苦労なさったこと、成功なさったこと。クルマのことも教えて頂きました。最後には、僕の会社の悪いところを教えて頂きました。本当にありがとうございました」

 猫柳君は立ち上がってペコリと頭をさげました。
「僕はまだまだ半人前です。もっと勉強して一人前になったらまた来ます。絶対来ます。そのときは是非またチャンスをください。社長、いままでたくさん勉強させて頂いてありがとうございました」

 顔を上げた猫柳君は笑顔で社長にお礼を言いました。『ありがとうございます』という言葉を、こんなに素直に言えたのは生まれて初めてでした。「お元気で」 そう言って立ち去ろうとしたときのことです。
「……ちょっと待て。よく、言った!」

「え?」 猫柳君が振り返ると、古戸社長はソファに座ったまま腕組みをして宙を見つめていました。
「いま何を?」
「良い言葉を聞けた。だから、あの一件は水に流す」
「え?……ほ、本当ですか?」
「ワシが気に入らなかったのは貴様の会社の営業姿勢だ。しかし、それを勝る貴様の営業根性を今、ワシは見た。だから取引をすると決めた。それだけだ」

「ありがとうございます!」
「そうと決まれば早く契約書をもってこい。納期遅延は許さんぞ」
「分かりました! 今すぐ用意します!」
 猫柳君は、社長室の扉を破りそうな勢いで飛び出して行きました。


「お前はタバコ吸わんのか? ほれ」
「いえ、吸います。あ、でもこれはキツイ……」

(イラスト:尾形まどか)
(イラスト:尾形まどか)
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 竜一郎さんのショートホープを遠慮しようとした坊津君でしたが、ギョロリとにらまれ仕方なく1本もらうことにしました。「まったく優しいんだか、怖いんだか、分かんない人だ」
「ん? なんか言ったか? ま、ええ。坊津、よく聞け。役員直下で独立して動いてた第三営業部の頃とは違うぞ。あんなものは遊びだって言う奴もいる」

「そんな言い方、ひどいですよ。僕らは血のにじむ思いで新規開拓を……」
「俺だって遊びだなんて思っとらん」 ここでプカーっと煙を吐き出して、竜一郎さんは続けました。
「しかし、そう思う人たちも存在するってことだ。そして今は事業部なんだ。好き勝手には動けない。各セクションの利害が一致しないと、一緒に動く道理がない。ましてや管理職は自分の評価につながらんことは……せんわな、がはは」