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 ファナック名誉会長の稲葉清右衛門氏(以下、敬称略)が、2020年10月2日に95歳で死去した。稲葉の功績を一言で表せば、「産業革命以来最大ともいわれるNC(数値制御)装置というイノベーションを起こし、ファナックを強靱(きょうじん)な体質を持つ世界的トップ企業に育て上げたこと」だろう。そして、同社の提供する高精度・高品質なNC装置という武器を得て、日本の工作機械産業は世界最強の座に上り詰め、日本の製造業を支えたのである。

稲葉清右衛門氏
稲葉清右衛門氏
(出所:ファナック)

 現代の先進国では、NC装置を搭載した工作機械(NC工作機械)は当たり前の存在だ。しかし、今から50年ほど前まではそうではなかった。職人が工作機械を手で操作し、巧みな技能で物を加工していたのである。その職人技をマイクロプロセッサー(MPU)によるコンピューター自動制御に変えたのがNC装置だ。それによって機械加工の生産性や品質は飛躍的に高まった。さらに、NC装置を経由して工場内の機械がネットワークでつながり、機械の遠隔操作・監視が可能になるなど、いわゆる「第4次産業革命」に至る道を開いた。NC装置が産業革命以来最大のイノベーションといわれるゆえんである。

 いかなる経緯でこのイノベーションが生まれ、日本の工作機械産業を世界の頂点に押し上げたのか。それに関心を持った私は、企業と産業の観点から『日本のものづくりを支えた ファナックとインテルの戦略』(光文社新書)という書籍に経緯をまとめた。同書では稲葉のエピソードも少なからず紹介したが、あくまでも立脚点は企業と産業だった。そこで本稿では、同書で十分に触れられなかった稲葉個人の足跡をたどり、1人の名経営者がどのようにして生まれ、そして強靭な体質を持つ企業をどのようにして作り上げたのかを考えたい。

先輩技術者に議論を挑み、周囲と衝突

 稲葉の足跡をあらためて振り返ると、1つの疑問が浮かんでくる。それは、富士通の一介の技術者だった稲葉がどのようにして名経営者へと“脱皮”したのかということだ。

 日本で広く知られた経営者といえば、パナソニック創業者の松下幸之助氏やソニー創業者の盛田昭夫氏などが思い浮かぶ。パナソニックやソニーに比べるとファナックははるかに規模が小さいし、生産財メーカーということで一般になじみがないだろう。だが、製造業では断トツの長期安定的な高収益企業を作り上げたという点で、やはり名経営者といってよいのではないか。

 技術者はいかにして経営者に変貌するのだろうか。この問いは、日本の将来にとって極めて重要である。日本は、「現場は強いが経営は弱い」と長年指摘されてきたからだ。米国の著名な経営学者であるマイケル・ポーター氏は、「日本企業には戦略がない」と指摘する。実際、日本は電機や半導体といった産業において、技術で世界を先導しておきながら、経営の弱さ故に逆転されるという苦い経験を何度も味わってきた。逆に、技術は変わらないにもかかわらず、ただ経営者が入れ替わるだけで復活した例も多い。日本の将来には経営の力が不可欠であり、優れた経営者の育成は重要な課題になるはずだ。

 稲葉の話に戻ろう。東京帝国大学第二工学部精密工学科(現東京大学工学部精密工学科)を卒業した稲葉が機械技術者として富士通(当時は富士通信機製造)に入社したのは、戦後間もない1946年のことである。当時の同社は社名の通り通信機を製造する企業だったので、圧倒的に電気技術者が多く、稲葉のような機械技術者は傍流だったという。

 組織人であれば、傍流でよいと思う人はいないのではないか。稲葉もそういう環境を快く思っていなかった。稲葉の著書『黄色いロボット』(日本工業新聞社)には、当時の回想として、稲葉が先輩の電気技術者に議論を挑み、周囲と衝突ばかりしていた様子が記述されている。稲葉は一介のサラリーマン技術者として、しかも傍流の技術者として富士通に入社したのである。

 その稲葉に転機が訪れる。56年、新規事業開発のプロジェクトリーダーに任命されたのだ。この時、稲葉は入社10年目の中堅社員だった。当時の技術担当常務の尾見半左右氏は、コントロール(制御技術)が今後重要になるだろうという読みの下、同分野の新規事業開発を稲葉に命じ任せたのである。

 稲葉は幾多の探索の末に、米Massachusetts Institute of Technology(マサチューセッツ工科大学)の「MIT Report」に触発され、コントロール分野の中でもNCにテーマを絞った。そして、NCの性能と安定性を実用水準まで引き上げるために、プロジェクトリーダーとして技術開発に取り組む。そして59年、「代数演算パルス分配方式」「電気・油圧パルスモーター」という2つの重要な発明によってNC装置が実用水準に達した。プロジェクト開始から約3年後のことだ。ただし、この時点の稲葉の意識は、あくまでも技術開発を先導する「技術リーダー」である。

赤字対策という修羅場が「性格をも変えた」

 そんな稲葉の視野を技術開発という枠を超えて大きく広げたのは、NC事業の「赤字対策」に向き合った経験である。前述した2つの発明によってNC装置の技術は実用水準に到達していたが、市場の需要はそう簡単には増えず、NC事業は65年まで赤字が続いた。その間、稲葉は技術開発のみならず営業も経験し、赤字だったNC事業を黒字に転換すべく懸命に取り組んだ。